月見酒




明るい月夜だ。酒がほどよく回ってどこか満ち足りた気分になる。大学での雑務の疲れもどこかへ行くような、ただただ静かな時が流れていた。縁側から差し込む光を眺めて杯を傾ける。この居間でこうして二人だけで飲むのは初めてではない。元来どんちゃん騒ぎの苦手な性分だから、差し向かいに飲める相手がいることに改めてなんというか、安堵した。もちろん皆でばか騒ぎをするのも嫌いではないというか、新鮮な楽しさもある。しかしこういう酒はどこか格別だった。深い息をして、また杯に酒を注ぐ。
なあ二階堂、いい月だな。そう言って振り向くと友人は眠そうな目をしてこちらを見た。
 「酔ったか」
 「いや、まだだいじょうぶ」
回らない舌で答える二階堂に、惜しいなと思う。文学的な感性ならまだこいつの方があるから、この月にも何かいい言い回しを探し当ててくれるのではないかと思ったのだ。酔う前に聞けばよかった。いまひとつぴんとこなかった源氏物語を、理系の頭にも了解できるくらいに平たく説明してくれた高校時代を思い出す。あの色々な物事をただ詰め込まれる空間からは離れて久しいから、彼はそんなこともやり方すらも忘れているかもしれなかったが。

 「眠いなら寝たらいい、俺は一人で飲むし」
 「まだ飲めるって」
た行とら行が怪しいじゃないか。心配をよそに彼は杯を煽る。月明りに浮かび上がる頬は火照っていて、目はいよいよ座ってきた。いつもはもう少し落ち着いて機嫌良く飲むのに、今日はなんだか少々ペースが早いような気がする。とはいえ何かに苛立っているようには見えないし、機嫌を悪くするような心当たりもない。彼の天敵である鼠に遭遇したとは聞いていないし、我が家で飼育しているスナネズミたちの水槽は自室に置いたままだ。案外アルコール分解酵素が足りないだけだろうか。なかなか華やかな顔立ちの割に、何かにつけて日本人の典型例のような男だ。
 「きれいだなあ」
二階堂はふらりと立ち上がり縁側へ出た。思っていたように特別な語彙を使うでもなく、実にほのぼのと言う。考えてみるとそちらの方が好ましいような気もした。二階堂らしいというか。俺も徳利と杯ふたつを取って後に続き、さえざえとした縁側に腰を下ろす。二階堂はまだ白い月に見とれていた。惚けたように見上げる横顔に、知らずこちらの頬に笑みが乗る。
 「冷えないか」
 「平気平気、厚着だし」
そう言って座り込み、徐にこちらの肩へ凭れかかってくる。酔うと人に甘えるのがこいつの癖だ。それは普段からだという言もあったが、ともかく酔うと顕著になるのは確かだろう。いわば習性、それ以上でも以下でもない。俺は動物園の解説板のような無頓着さを、たぶん装った。酒を冷ますように夜風が吹き抜ける。俺は知らん顔でまた杯を空にした。
 「ハムテルはあったかいなあ」
お前が言うなと思うほどに、よほど熱そうな顔で言いながら肩に頬を擦りつける。獣医見習いが犬猫のようになってどうする、というのは本物に失礼だろうか。彼よりも人に対する落ち着きに満ちている彼女たちは既に各々の寝場所で健やかに寝入っているので、しゃあと言って怒られたり無言で困惑されたりすることはなかったが。
 「だから、眠いなら寝ろ」
 「眠くないって」
 「寝そうだぞ」
 「違う…」
語尾がむにゃむにゃと不明瞭になるのを聞いてため息をついた。このやりとりには幼子を相手にでもしているような不毛さがある。まがりなりにも長兄じゃなかった?お前。というか、成人男子が成人男子相手にこの態度はどうなんだ。個人的には別に構わないのだが、不思議ではある。大学の友人である清原辺りに聞けばなんら悪びれもせず堂々と、お前ら見てるとさぶいぼが立つ、と言って指を指すだろう。想像するだに当惑するが、的を射ているような気はする。

 「俺、邪魔?」
顔を上げて二階堂が言った。睫毛の多い目が熱っぽい。ああ面倒だなあと思うが、それでもなぜか邪険にできないのがこの男だ。時々まるで小動物のようにびくびくと、それでいて色んな危機をすり抜けて結果オーライに生きている。言ったら怒るだろうから言わない。
 「邪魔じゃないよ」
いや、実際利き手の方の肩に寄りかかられると持っている杯が震えて危なくはあるのだが、ということはおくびにも出さずに、とりあえず空いている手で頭をぽんぽん撫でてやると二階堂は気持ち良さそうに目を閉じた。その顔に妙な考えがかすめて、こっそりと心中でやりすごす。癖のある髪の感触が楽しいとだけ思うことにした。おかげさまで隠匿作業には慣れている。
 「ハムテル!」
急に無造作に抱きつかれて酒を少し零した。まあいいか縁側だしと思いながら酒杯を置いて肩を抱き返す。はいはいと鷹揚に返事もできた。手と手が触れては悶々とするうぶな頃はもうとっくに通り過ぎている。瑞々しく生々しい高校生の純情はすっかり乾きものになって、まだ渇いているどこかには概ね蓋がはまっている。腕の中の少し高めの体温で、これでいいんだという考えが通算何十回めかを数えた。もしかすると百回目かもしれない。
 「酔わないなあ、お前」
俺の頬を不器用に撫でて二階堂が言う。真ん中で横へ流した黒い前髪はふわふわかすかに揺れて、白い額までどこか薄赤くなっている。さすがにこの不躾な距離感からして、やっぱりそれなりに酒は回っているようだ。ただまあ、こちらはみじんも不快ではないのだが。
 「顔に出ないだけだよ、知ってるだろう」
頬を触りつづける手を退けようか迷ってやりたいようにさせた。へそを曲げられても後が困る、というのもあながちただの言い訳ではない。へこむと人の話を聞かなくなるのが二階堂だ。正確には聞くようで聞かないというか、聞いているようでわかっていないというか、どんどん疑り深く悲観的になるというか、それでどんどん面倒な話になっていくから。
 「まつげ長いよなあ、ハムテルは」
話がぽんぽん飛ぶな。じっくり目を覗き込まれて少し落ち着かない。お前人のこと言えないだろうと思いながら、そうかな、と答えた。ハムテルという妙な渾名もつけた本人はいたくお気に入りのようで、こいつは日頃からしきりに俺を呼ぶ。およそすっかり周りに定着してしまうくらいには呼ばれた。まあ別に呼びたいように呼べばいいけど。嫌と言うほど悪くもないし。
 「そうかなって何だよ、これだから男前は」
もてない男の悲しみなんてわからないんだろう、と更に詰め寄ってくる。鼻先がくっつくんじゃないかというほどだ。というか話がまた妙な方向へ飛んでいる。なんだお前、絡み酒か。そういえばたまにあるような気もする。しかしこういう理不尽な言い分にも少しは慣れた。振り回されてはいる気がする。しかし拗ねたりいじけたり暗い思考をしたりとどう対処したものかわからなくなるときも、それでも心から厭だとは思えない。まったく得な性格だ。
 「二階堂こそ、黙ってればそれなりだろう」
 「何だよその言い方はあ、どーせ喋ったら駄目だよ!」
それはまあ、頼りないからな。ふと嘆息した拍子にぐいと胸元を捕まれても身の危険を感じないのは、相手がふらふらだからというよりこいつが二階堂だからだ。思えば一回も殴られたことがない。殴ったこともないけど。そういう選択肢をついぞ考えたこともないのは、俺と二階堂が俺と二階堂だからだろうか。それよりも今はこの近さをどうにかしてほしい。仕方なく目を瞑ってみると酒の匂いが交じった息まで皮膚で感じられたので、仕方なく目を開けた。
 「それに俺はもてない。無愛想だし、口べただし」
 「うそだあ!」
 「本当だよ、中学の頃なんか、女子には遠巻きにされていた」
 「まあたまた、それはお前がかっこよすぎて近づけないってことだろ?」
 「まさか。女の子と喋ったこともなかったな。バレンタインも縁がなかったし、暇だからと勉強していたら指をさされたし。それに、今の環境が女性と縁遠いのはお前も知ってる通りだろう」
適当に脚色した「もてない歴」をすらすら喋ると、ようやく奴のお気に召したようだった。実際はさすがにそれほどまでではなかったが、酔っぱらいを納得させるには誇張がきくものだ。なんだそっかあ可哀想に、と笑いながら肩を叩いてくるので、痛い、とぽつりと返す。まったく調子のいいことだ。しかし、こいつがもてないだなんて俺は思わない。数少ないながら好感触の出会いにさっぱり気づいていないだけだ。鼠の気配にはそれなりに鋭い割に、色事にはどこまでも鈍感なんだ、こいつは。

 「ハムテル」
注いでやった杯を飲み干したあと、人の気も知らずに二階堂が笑った。頓にやさしい笑顔ではあった。なに、とかすかに笑い返して、続く言葉にあっけなく固まった。
 「俺はね、ハムテル好きだよ」
傍目にはただのいつもの無表情に見えるのかもしれない俺の頭の中を一瞬、計り知れない電気が飛び交った。それこそ落雷にでも遭ったような勢いだ。瞬きも忘れたように絶句している俺をよそに機嫌のいい二階堂が言った。
 「好きだ、うん、好きだなあ」
からから笑いながら戯言を繰り返す。ああこの酔っぱらいは、とふつふつ腹が沸いてくる。庭の池にでも投げてやろうかと思ったがどうせできるわけがない。この期に及んでもまだ、教授に勝つより難しいかもしれなかった。そういうことだ。
 「女に相手されなくってもハムテルはハムテルだ!」
 「そうか」
 「そうだよ、だからめげるなって」
寄りかかられ髪をぐしゃぐしゃかき回され、酔っぱらいの絡み方がどれほど雑かを実感しながら酒杯を空けた。広がる苦みに喉の奥がざわりと痛む。急に度数が強くなったような感覚に、俺は弱いなあと思った。他の誰かに笑いかけるのも酔って俺にすりよってくるのも全部苦々しい俺を、こいつは露ほども気づかない。知らないでいいと知ってくれの間で、俺はまだこんなにも湿っていた。懸命に隠した情念が這い上がって俺を塞ぐ。
 「ハムテル?」
おもむろに、柔くしがみつくように抱きついてきた俺に、二階堂はふにゃりとした発音で疑問を発する。はずみで転けたかもしれない酒杯は気にならない。背に手を回し胸元に額をつける。洗剤と薬品とかすかに二階堂の匂いがする。俺だって好きだよ。焼けた喉にこびりつく言葉は結局飲み下され、酔った、と俺はぽつりと言った。そら見ろ、と奴ははしゃいで背に手を回し返してきた。なあ親友。後生だから、酒のせいだと思っていてくれ。


- end -

2009-06


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