学校帰りにゲームセンターへ行くのは帰宅部男子の習性だ。特に友人にゲーム好きがいればそれに付き合うこともしばしばで、格ゲーに夢中になったりUFOキャッチャーに必死になったりと思いの外小遣いを失うことになる。その日もそんなこんなで財布をいやに軽くした俺たち三人はそろそろ帰るかとレースゲームの台の前を後にした。月末なのに、と俺が半ば頭をかかえながら言うと、あと二人が声をあげて笑う。笑い事じゃねえよとバイトの給料日までの日数と残りの所持金を照らし合わせながら歯がみした。そのまま勝ったの負けたの損しただのと騒ぎながら店を出たとき、入り口付近に並ぶいわゆるガチャガチャの自販機にふと目が留まった。その前に立ち止まって背中を屈めた俺を見て、芳賀がふしぎそうに言った。
「何、なんかいいのあった?」
これこれ、と自販機に貼られたイラストを指で示すと、青山が即座にあいかわらず趣味悪っ、と眉をしかめた。さっき三連コンボを叩き込まれた恨みもあって、うっせ、と脇腹を肘でこづく。そういう青山はついさっきまでノーブルなぬいぐるみの入ったキャッチャーとお徳用のお菓子が積まれた筐体のあいだをさ迷っていたはずだ。
「世界の妖怪列伝、ね。国也好きだよなこういうの」
芳賀までにやにや笑ってくれた。何だよ、かわいいじゃんか。確かにちょっとデザインはリアルだけど、これを気色悪がるのはただのお子様だろ。ポケットをさぐると、両替して余した百円がちょうど残り二枚あった。迷わず投入すると小気味いい音がする。青山がああとか何とか残念そうに呟いた。俺の金なんだからいいだろ別に、いっそ宵越しの金はなんとやらだ。ジュース一本我慢する計算ではあるけど。
「猫出ますように」
ぱん、と一回軽く手を合わせる。どろどろしたゾンビや青白いミイラもいいけど、俺は猫好きだ。ダイヤルを回すがくん、という感触もちっちゃい頃から好きだった。そういえばなんか久々だなあ、これ。
「こいつ、猫?」
「化け猫?やばい目してね?」
「口裂けてるよ、絶対人食うよ」
「こえー!」
取り出し口に手をつっこむ俺の横で、二人がイラストを見ながらやいやい好き勝手に言う。クールでいいだろ、と俺はカプセルを開けるのに手こずりながら反論する。半透明なカプセル越しに猫の耳っぽい部分が見えた。やりい、と思ったそのとき、ぱかんと間抜けな音を立ててカプセルは開いた。
「…あれ?」
それに劣らず間抜けな声で俺は言った。芳賀と青山が笑いをこらえきれていない顔をしはじめる。出てきたのは確かに猫だったが、ファンシーでキュートでシンプルな顔をした子猫だった。
「なんだこれ」
呟くと、やっぱりこらえきれなかったらしい二人がげらげら笑った。
◇◇◇
「…で、これ貰ってきたんだ?」
久藤が無表情な顔で言った。これというのは例の子猫のキーホルダーで、筆箱の横に転がしてある。最近人気のファンシーキャラらしいけど、丸い目も短い手足も、かわいいことはかわいいけれども毒がなさすぎて趣味じゃない。もっとにくたらしくて猫っぽい猫の方がいいんだよなあと思いながら昨日の一件について続けた。
「店の人に言ったらやっぱり入れ間違いでさあ。
うっかり前置いてたゾンビの自販機にこいつら入れちゃってたんだって」
「じゃあ、妖怪列伝はもうなかったんだ」
「当たり」
欲しかったのにと言うと、まあ縁があったらまた見つかるよと久藤は返した。こいつのこういう親身なようで適当なところは結構好きだ。
「だから、青山に負けるわ化け猫取れないわで、もう最悪だった」
「へえ。ゲーム強いんだ、青山」
「強い強い。昨日もぬいぐるみ取ってたし」
「UFOキャッチャー?」
「そうそう。タグの穴に引っかけて取るんだって。でも俺はぜんぜん無理だった」
「練習量の違いだろうね。でも、青山って不器用だと思ってた」
「ゲームだと目の色変わるぞ。新作出たら行列するし」
「それはそれは」
こうやって久藤とたあいもなく喋り続けるのは、半ば図書当番の日の習慣になっている。とはいえもっぱら俺ばっかり話すから久藤は聞き役だ。たまに笑わせたとき勝ったと思えるから、ネタを仕入れては身振り手振りまじえて披露している。なんだかんだで楽しい。
「だけど、取ったぬいぐるみどうするんだろう。持て余すよね?」
「あー…」
久藤の疑問に、俺は言おうか言うまいか一瞬迷って天井に目線をさまよわせる。ふしぎそうな無表情で久藤が首をかたむけた。まあいいか、言っちゃえ。相手は久藤だし。もどかしい男の純情も他人事なら話の種だ。というかあいつは正直まごつきすぎててむかつくのだ。
「たぶん日塔さんにあげようとか思ってんだと思う」
内緒な、と言うまでもないことをつけたした。にんまり笑うと、へえ、と久藤が眉を上げた。知らなかったとか意外だとか顔が言っている。俺は少し優越感じゃないけど満足した。奴の知らない俺の知ってることは乏しい。
「で、思ってるってことは」
「そういうこと。いやあ、青山君も青いからなあ」
「面白がってるね、木野」
久藤は言うまでもないことを聞いてほほえんだ。応援してんだよ、っていうかその顔はお前も同類だろ。このお優しい天才ストーリーテラー様は案外性格が悪い。案外じゃねえや、なんてことも俺はつけたす。
「告白するならすればいいのに。お似合いだと思うけど」
「日塔さん、先生ラブ組っぽいから」
「ああ、それで」
青山は青山なりに青春の悩みがあるらしい。思いを伝えるぬいぐるみが踏ん切りのつかないまま部屋の棚に増えていく様は、想像するだにちょっと不憫だ。先日なんかなかなかのサイズを持って帰っていたけども、帰宅途中で途方に暮れないか心配だった。
「女子ってああいうほっとけない大人好きだよな。…勝ち目あんのかな、青山」
「眼鏡と髪型と、あと背の高さはいい勝負じゃない?」
「けど性格的に真逆だし…無理くね?」
なんかだんだん真面目に気の毒になってきた。クラスメイトの結構かわいい女の子は、普通にハードルが高い気がする。女子たちの先生追っかけは意外と熾烈で熱烈だと噂に聞くし、なかなか振り向かない相手にはえてして夢中になるものだ。思いのほか尖った横顔の七三メガネを思いながら、あいつの分まで少しため息をつく。
「つか、ぐだぐだ悩んでないで、俺みたいに下駄箱に入れとけばいいのに」
久藤は何も言わずにまた笑った。何だよその顔は。
「じゃあ、木野はこれ、どうするの」
ごくあっさりと話題に向けられた。不意打ちに俺は一瞬詰まる。いや、考えてないこともなかったけど、考えられる選択肢にあんまり気が進まない。だってまるっきり俺のチョイスじゃないわけだし、使おうとも思わない。かといって捨てるのも何だし。思案するように頬杖をつくと、机の上の子猫がかすかに揺れた。
「下駄箱に入れるの?」
「入れねえよ」
図書室ではお静かに、と朗らかに笑う顔がにくたらしい。普段はこの猫よりしたたかな顔してるくせに、俺のことは遠慮なく面白がる気だ。知ってるけど。睨みつけてもあっさりかわし、キーホルダーを摘み上げてしげしげ見ながらこともなく言う。
「どうせ使うわけでもないんなら、誰かにあげた方がこの子も喜ぶと思うけど」
「そいつは無生物だから何も考えないし、そんな適当なことできねえよ」
「…『猫の御恩奉公』、むかしむかし」
「やめろ!っていうかなんか雰囲気どっかで聞いたことある!」
なんか負けそうになってきた。いやでも、自分が特に好きでもないものをプレゼントというのは俺の美意識に反する。悩んで悩んでやっと見つけたとか、見た瞬間あの子の顔が浮かぶとか、できればそういうインスピレーションな出会いがなければ。
「普段のプレゼントがあんまりいい反応ないんだから、たまにはこういうまともな感じで行けばいいんじゃないの」
ぐさりと突き刺さる攻撃に突っ伏す。ドラムロールが急激に減っていく。まじで負けそうになってきた、っていうかそれ俺のセンスがまともじゃないって言いたい感じに聞こえるけど失礼だろ。売ってくれる店長さんにまで失礼だろ。あの人ノリは不思議だけど意外といい人だぞ、割引券くれるし。
「きっと加賀さん好きだよ、こういうの」
明快な言葉でとどめの一撃。ぐるぐる考えて必死な反論を挟む余地もなくHPは0になり、俺は負け台詞にもならないことをぼそりと言った。
「なんでお前にわかんだよ…」
「さあ、何でだろう」
顔を上げると久藤はくすくす笑い出した。笑わせたけど負けた、というおもしろくもない事態に不服なためいきをつく。差し出されたキーホルダーを受け取って立ち上がると、久藤はいってらっしゃいと手を振ってさっさと本を広げた。
◇◇◇
階段を上がって2のへの教室に向かう。とりあえずこれは下駄箱に入れるべきものではないだろうし、簡単なカードでもつけて机に入れておこうと思ったからだ。しかし、やっぱりなんか言いくるめられた感じがする。こいつの魅力もいまひとつぴんとこないままでほいっと好きな子にあげてしまっていいものだろうか。そんなことで真心のプレゼントと言えるだろうか。にらめっこのまま未だ悶々と考えるも足は教室へ向かっているから世話がない。手の中の子猫は至って満ち足りたようにほほえんでいる。その悩みのなさそうな顔がうらやましくなりつつ廊下の角を曲がった。
「うわ!」
途端に向こうから飛び出して来た子とかち合って、とっさに転ばないように受け止めた。額の当たった心臓が驚きとトキメキでばくばく言う。背中に手を添えようか少し迷う。はずみでキーホルダーが足下に落ちたが、あんまりそれどころではない。その結んだ髪と華奢な肩で、すぐに彼女だとわかっていたから。
「加賀、大丈夫か?」
そろそろ下校時刻なのに帰ってなかったのか、こんな遭遇ってなんというかベタだな。いや運命とも言いたい。どきどきしながらのんきなことを考える。こんなにすぐ近くに加賀がいるのは初めてで、離れるのがちょっと惜しいと薄ら思った。耳のところにさらりと落ちる髪がきれいだと思った。
「…木野、くん」
加賀が小さく言った。あれ、おかしいな。普段ならすぐに飛び退いて謝ってくるような場面なのに、まだ顔を上げないでじっとしている。過敏すぎるくらい遠慮がちな彼女にしてはなんか妙だ。具合でも悪いんだろうか、それともさっきどこか痛めたか。
「ごめん、痛かった?」
顔を覗き込もうとするがそれを拒むように俺の胸元に額が押しつけられた。混乱した頭上にハテナが舞う。降って湧いたような幸運ではあるけれども、ここでどうすればいいんだかがさっぱりよくわからない。心臓がどくどくうるさくなってきて、顔がひどく熱くなってくる。神さまにありがとうを言いかけたときだった。
「すみません」
本当に、という弱い声と共に、ひっく、としゃくり上げる音が聞こえてようやく事態がつかめる。一気に熱が引いていく。俺とぶつかってうろたえた結果の涙ではなさそうだった。女の子が泣きながら駆けてくるようなことはそんなに多く想像できない。がらり、と、ちょうどそのとき音がして、視線をやると少し向こうの2のへの教室の、後ろの戸を開けて出てくる人がいた。よく見慣れた丸めがねと、昔の人みたいな袴姿だった。レンズが逆光で西日を白く返す。こっちをちらりと見た気がしたけど、あとは振り向かずにすたすた逆側の階段へ行ってしまった。どうしたんですかも早く帰りなさいもなくて、こっちが声をかけようとしたけど何も出てこなかった。あまりにも不自然で、結論が一個しかなかった。
「…どした?なんかあった?」
焦ったような言葉が口をついて出た。さっきの早鐘はしんと冷えきってて、俺はとにかくどうにか泣き止ませたくて子供相手のように声をかける。加賀は泣き止まないし何にも言わない。俺は弱る。こんな時はどうしたらいいんだ?今まで読んだ恋愛小説の色んな一節がぐるぐる回る。だけどどれもロマンチックでメロメロで非現実的で、今ぜったい必要な言葉とはまるで違っていた。
「いじめられた?」
ようやく出てきたのはそんな質問だった。おかあさんか俺は。加賀は首をやんわりと横に振る。細い背中はかたかたと震えていた。できるものならぎゅっと強く抱きしめたかった。そんなこともできない俺はただただその肩にぎこちなく手を置いて、色んな感情を持て余して顔を歪めた。押し殺す声にやさしさをまぶす。
「けがした?お腹痛い?」
だからおかあさんかっての!加賀はまた首を横に振る。ぎゅっとしがみつかれて俺も泣きたくなる。俺の中の冷静で的確な人間が違うだろうと叫ぶ。今泣きたいのは加賀だけだろう、そんでもっとあるんだろう今こういう状況で第一に思い当たってとても考えたくないことが!その声に耳をふさぐわけにはいかない。ごめんなさい、と加賀がかすれた声で言った。すごく悲痛に聞こえた。たぶん自分を責めに責めてるな、とわかる声だった。その中身も推測できたけど俺に刺さるからあんまり考えないことにした。頭の中に糸がぴんと張っていた。こんなことに気づいてることに気づかれたら、きっと彼女はもっと悲しい。察する、ってすごいきつくて苦いことだったんだな。俺は少し黙って考えてから、安心させることだけに必死になった。
「…大丈夫だから、何にも考えなくていいから」
とんとん背中を撫でながら言う俺の声まで歪んでかすれていた。一緒に泣いてるみたいだなと思う。だけど泣いちゃ駄目なんだよ男の子だから。これはかっこつけるとかそれ以前で、ただ単に意地の問題だ。さっきの冷たい逆光の結んだくちもとを思い描く。あんな人のために泣いてる子にできることがあるんなら、つられて揺れ動いて折れてることはできない。
「思いっきり泣いちゃえばいいんだよ」
俺なんか壁か何かだと思って、と続ける。俺が君を好きなこととか色々まとめて今は気にすんなと暗に告げる。わざとらしくなくほの明るく響けばよかった。こんなときに打算も欺瞞も浮かばないのは、弱くて脆くてぶざまだからだ。悲しくて悲しくて、つけこむ気なんて起きもしない。だから冷静で的確な俺、今は寝ててくれ。言いたいことなら全部わかってる。でも、この子に胸ぐらいは貸せる。
「だいじょうぶ」
明瞭に言えて笑うと、加賀がほんの少し顔を上げてまた伏せた。それからはずっと静かに泣いた。トロイメライが鳴り終わっても続いた。合間に続く小さなごめんなさいには耳を塞ぐ。さっき一瞬だけこっちを見上げた泣き顔に、俺は健全な男子であることに深い深い絶望をした。絶望、全く嫌な単語だ。
◇◇◇
「落ち着いた?」
たっぷり十五分は経っただろうか。思考停止を続けても、ぽんぽん背中を撫でる右手はずっと動いていた。絞り出した声も結構落ち着いていた。何なら好青年だ。おお、やるじゃん俺。加賀は小さく頷いて、本当にごめんなさいとまた繰り返してそろりと離れた。わずかに風が吹いたみたいで、なんかそれだけでさびしいような妙な感じがした。センチメンタルだ。束の間の幸せだったような、むしろひたすら叩きのめされたような時間は終わって、二人のあいだの空気も徐々に普段の感じに戻っていく。窓を見るともう日は暮れきっていて、廊下の白い電灯がことさらに明るかった。
「すみません、汚して」
加賀が学ランの胸元に手を伸ばして払いながら言う。俺は曖昧に返して差し出されたハンカチを断った。実際おでこくっつけられてただけなんだから濡れてもいない。先に顔拭いたらと言うと、加賀は頷いてそれに頬の涙を吸わせた。うつむく表情は見えないで、足下に点々と涙が落ちていた。いま冬服でよかったとぼんやり思う。それ以上はもう一回思考停止。加賀は顔を上げない。俺もなんとなく目を逸らしていた。間が持たなくて、口からふらふらと言葉が出ていく。
「喉渇いただろ、なんかおごるよ」
「そんな、悪いですから」
「いいよ気にしなくて」
「いえ、本当に」
加賀はたじろいだように俺を見上げてまたすぐ俯いて、そして何かを見つけたように目線をすべらせた。その先を見ると、すっかり忘れていた例の子猫が転がっていた。ああ、とつぶやいて拾い上げる。当然ながらそのほほえみに恨みの色はない。でも、一応ごめん。悪意はなかった。
「誰かの落とし物でしょうか」
「いや、俺の。さっき落としたんだ」
「え、あ、すみません」
「いや、全然」
言いながら親指で埃をぬぐう。廊下掃除の当番はさぼってなかったようで、そんなには汚れていなかった。細かい部品もないから、どこか壊れたりもしていない。きれいになったところで加賀に差し出した。
「さっき、これ加賀にあげようと思って教室行くとこだった」
「…え」
彼女は俺を見つめてきょとんとまばたきをした。まぶたや頬は赤かったけど、もうだいぶ平気そうだ。それから思い出したように両手を前に突き出して遠慮のポーズ。ああ、いつもの加賀だ。思わず笑うと、加賀はますますうろたえる。自分の表情筋がなんかぎこちないのはきれいに無視した。
「困ります」
「気にしないでよ、安かったし」
「でも…」
「こういうの嫌い?」
「いえ、えっと、でも」
子猫を目の前にかざすと、加賀は悩みだした。今にも誘惑に負けそうな顔をしている。おろおろと下がる眉毛が困っている。ああほんとに好きなんだなあこういうの、かわいいなあ。まだ素直にそう思う自分に苦笑する。でも実際かわいいんだからしょうがない。それにこのぐらいで終わるような恋なら、ずっと逃げられ続けてまだ懲りないなんてことがそもそもありえなかった。胸のなかに上昇気流がともるのをうっすら掴む。
「どうぞ」
弱ったように左手を軽く握り込む右手を取って子猫を握らせた。白くて細っこい手は案外やわらかかった。加賀はしばらくおろおろしていたが、両手で包んで子猫を見つめるとやがてぺこりとお辞儀をした。
「ありがとう」
やっと快く受け取ってもらえたプレゼントが誰だったかの提案だというのもなんか癪だったけど、でもそのあとの加賀のそっと見せてくれたようなほほえみがそれはそれは半端じゃなくかわいかったから、それで良しとしておきたくなった。
◇◇◇
それからすぐ、もう暗いからと言って少々の押し問答のあと加賀を駅まで送っていった。歩いてる間は二人とも黙っていた。手をつなげるくらいの幅に風が通るあの感じはできたら忘れたい。夜道を等間隔の街灯が照らして、月がぽっかり浮いていた。俺はそのとき、ふいに一言だけ聞いた。
「まだ、好き?」
唐突だったし不躾だったし言葉も足りてなかったけど、彼女は怒らなかった。ちょっとためらってから、しっかりと頷いた。そっか、と俺は返した。眉は下がったけど、口の端は上げたら上がった。申し訳なさそうな顔をしてたけど、加賀もそれだけは謝らなかった。別れ際まで頭をぺこぺこ下げて、ホームへと続く階段を足早に上る後ろ姿をくっきり再生しながら、俺は来た道をまっすぐ戻った。図書室に鞄を取りにいくためだ。そういう名目にしたわけじゃなかった。だんだん駆け足になるのを誰にも見られたくなかったけど、幸い人気はなかった。夜風が俺をひゅうひゅう冷やす。冷や水みたいな中を走る。突き動かされるように脚は速まった。学校は走ったら意外とすぐだ。
◇◇◇
図書室の扉を開けると、電気はまだついていた。よろけたように入っていくと、真ん中ぐらいの席で久藤がゆっくり椅子ごと振り向いた。
「あ、お帰り」
俺を待っていてくれたのか、本を読んでただけだったのかは知らない。でも、俺の認める好敵手はさすがの久藤だった。悔しくなるぐらい、いてほしい時にいる。息を切らしたままずっと黙って突っ立ってる俺に、どうしたの、と不思議そうに首を傾げる。軽いデジャブが走る。その顔を見た途端、涙腺はもろくも決壊した。さっきの糸はざっくり切れた。ぶわっと漫画みたいに泣き出して転びかけて駆け寄ってきて、がっしり抱きついたというか軽く飛び込んだ俺を、久藤はうろたえながらもどうにか受け止めた。椅子の脚が床を擦ってぎしっと言う。顔が見えないように、頭突きみたいに額を押しつける。
「え、ちょ、どうしたの木野」
聞くな、とだけやっと言って両腕の肩あたりにしがみつく。わなわな背中が熱いのがわかる。いま俺、この上ないくらいにブザマだな。かっこわるいな。でもさっきあれだけ持ちこたえたんだからもういいってことにしておこう。キャパなんかとっくに溢れてた。っていうか流れてた。流された。ざっぱんと。久藤は迷惑そうな素振りも見せずに、よしよしとか言いながらただただ丸まった背中を叩いてくれた。それがあたたかくてしょうがなかった。だから俺はしばらく歯を食いしばって泣けた。というのは半分嘘で、割とうるさく泣いていた。涙が次から次へと久藤の膝に落ちていくのが見えた。学ランの素材は水をはじく。う、え、う、え、う、と嗚咽が出てくる。ひぐり、と横隔膜がわななく。ここまで腹の底からこみあげる涙はたぶん久々だ。
「まだ好き?」
唐突に久藤が聞いた。なんかもう一回デジャブだった。俺はこの体勢でもわかるように大きく首だけ頷いた。全然あきらめてなんかない。でも抉られた傷は痛い。笑ってごめん青山。お前はがんばっている。いろいろぐるぐる回る。回りすぎて熱が出る。涙はぼたぼた垂れる。とどまることなくあふれる。
「そっか、じゃあがんばれ」
穏やかな声が続いて、熱い俺の頭をぽんと叩いた。感極まってたのがより極まったらどう言うんだ。久藤がこんなにやさしいなんて知らなかった。思わず泣きながらぎゅうぎゅうに抱きしめた。痛いよと言われたけど振り払われなかった。やっと出てきた俺のありがとうに、どういたしましてと笑う。ハートばっきばきに折れてたけどしゃんと立ってた俺のことを、久藤の右手は何にも聞かないで褒めてくれた。
いちばんかなしいのはだれだ
- end -
2008-11