無断欠課



静かな静かな図書室に、僕が紙をめくる音だけが響く。繰り返し繰り返し、五百回ほど続けていたらぱたんと終わった。読後感には満足。目をつむって少し揺り返す。ううん、と伸びをして息をつくと、だいぶ心も沈殿から戻ってきたようだった。ふと壁掛け時計を見ると10時、理科の時間は過ぎて休み時間。確か次は数学だっけ。月曜日。うん、たぶんそうだ。理系の頭をしていない僕にはまるで味気ない時間が続く日。それでも一学期の始めにはいちおう教室にいたが、やっぱり本は読んでいた。すると名前も知らない教師にやにわに怒られたので、それ以来朝からここへ来て昼までこもっている。担任は、その態度は良くはないですよと少し苦い顔をして言うものの、あらためて対処するのも面倒なのか放っておかれている。僕にとっても面倒でないから、担任は相性のいい性質だと言えた。一度溜息まじりに、出席日数の計算くらいはしませんか、とは言われたが。とにかく、糸色教諭のおかげで心ゆくまで本が読める。うん、図太い性格であるのは自覚している。


さて次の本、と立ち上がりざま、並ぶ書架へ向かおうというとき、ばたばたと足音が聞こえた。入り口へ振り向くと狙い澄ましたように戸が開く。
 「やっぱいた」
外跳ね頭の少年がひょこりと顔を出す。どきり、心臓が鳴るのを素知らぬ顔で感じた。
 「どうしたの、授業始まるよ」
 「お前が言うなよ、暖房までつけといて」
まるで快活な声が響いて、うわここあったけえ、と笑う。
 「今日寒いから」
ああ、目線から何から向こうへ一点集中したから、次読みたいと思ったものを忘れてしまった。入り口の彼に歩み寄り、自分たちの並べた今月の新刊を二人で眺める。こういうことは何回目だったか、と思った。数える前に声がかかった。
 「これもう読んだか?」
 「うん」
 「面白い?」
 「どうだろ」
チャイムが今まさに鳴る。我関せずで立っている。隣の級友も同じようで、本の列を指でなぞっている。でなければここには来ないけれど。わずらわしさからサボタージュ、勝手な若者の特権。
 「あ、なんか好き、この絵」
彼が水色の装丁が鮮やかな青春小説を手にとる。気に入ったらしい表紙には軽やかな絵が載っていた。流し読みをした限りでは自分の好む方向ではなかったけれども、彼の好みはまた異なる。自分は薄い新書をひとつ取って、棚からすぐ傍の席に腰掛けた。おもしろみは全くなさそうな本だった。でも今は何を読むんでもかまわない。なんだか現金に思う。窓の外では寒そうな青空が黒雲を寄せ始めていた。
 「雨降るかな」
 「どーだろ、あ、傘持ってねえ」
 「ああ…でも今日委員会あるし、止んでから帰れば」
他愛ないことを言いながら、社会がどうの若者がどうのと主張の書かれた本をぱらぱらと流す。いつかの題名つけ合戦を思い出した。さしずめこれは何だろう。興味も湧かないくらいに、どこにでもいそうなおじさんの話すことであるが。件の本を立ち読みしていた木野が、うーんと不満げに唸った。
 「いまいち?」
 「女がキライ」
 「なるほど」
シンプルな理由で棚に戻された本に目を移す。その指先は少し迷って暖色系の背表紙を引いた。読書ぐるいの頭はすぐに内容へと思い当たる。
 「ああ、それは面白かった」
 「まじで」
 「うん」
彼が向かいの椅子を引く。そういえば、僕の薦めで何かを読むのは、彼の言う「負け」にはならないんだろうか。素朴な疑問だったけど、聞いてみてへそを曲げたら面倒だからやめる。頬杖をついて眺めていると、表紙を開いた彼が目をくってちょっと細めて笑った。
 「かーわい」
なごんだ呟きが聞こえて、その本の扉絵がふにゃりとした子犬であったことを思い出す。かわいいのはどっちだ、という声がそこそこ素で浮かんで、イタイなあ僕、と冷えた所では思った。
 「犬、好き?」
 「わりと。久藤は?」
 「だいぶ」
 「ふーん」
その本は冒頭からお気に召したようで、椅子に深く座り直す。会話はそこで途切れたけれど、居心地は悪くなかった。といっても彼が勝負勝負とわめくときも自分は案外楽しんでいる。要は彼といられれば何でもいいのだろうか、ちょっとそれは乙女思考に過ぎる気がするけど。
読み切る気もない新書をまた開いた。時々盗み見する俯き顔はやっぱりかわいらしく思えて自分にあきれた。後は彼はまるっきり無言になってしまって、ただ頁を繰っていた。さっきまでの僕と同じくらい没頭していた。


雨音がしだした。彼には聞こえていないようだった。
仄かにうれしくなって、それが少し苦かった。
雨音は続いた。僕は腕を枕にして、すこやかに寝てしまった。





 「くーどーうくん」
背中をゆすられて目が覚めた。うたたねだから夢らしい夢は見ていなかったと思う。緩慢に起きあがると、覗き込む姿勢である彼の顔がすぐ傍にあった。
 「わ」
思わず声をあげて引いた背が背もたれにぶつかる。起き抜けの人間に優しくないなあ、なんて思う余裕もない。
 「なんだよ」
 「いや、べつに」
不服そうに彼が眉根をよせた。今度は不自然に早鐘を打つのを明後日に流すと、目を向けた窓の外では雨が上がっていた。青空にはとぎれとぎれの刷毛で白や灰色の雲が流してあってそれはそれで好きな色をしていた。
 「…あー、寝てた」
ようやく落ち着いたからようやく頭が起きてきたふりをして言う。
 「完璧な」
面白がって笑っている彼はこのぎこちなさに気づいていないようだ。
 「読み終わった?」
 「おう」
おもしろかった、と言う彼の目が少し赤かった。感受性の素直な彼は泣かせどころに弱い。だから聞かせ甲斐や読ませ甲斐があるのだけど。
 「泣いたんだ」
 「うっせ」
罰の悪そうな顔に笑ってしまう。よく泣く人間は案外そのことを気にするようだ。それはそのことが不本意だからか、ということもやっと分かるような僕には縁遠い話だ。そういえば今日はまだ物語りをしていなかったなと思った。
 「今…あ、もうちょっとでお昼か」
 「おー、飯食おうぜ」
放りっぱなしの本をしまって、暖房のスイッチを消す。チャイムが鳴る五分前になっていた。戸を引くと廊下はしんしん冷えて、まとっていた熱が急にどこかへいってしまう。この冷えの中で授業を受けている人たちがいると思うと、罪悪感よりもふしぎさの方が先立つ。図書室は静かで楽しくて、学校じゃないみたいだから。
 「あ、そうだ」
 「ん?」
 「昨日思いついた話なんだけど、放課後でも」
 「受けて立つ」
自信のある応えに勝負じゃないよとまた笑う。チャイムはまだ鳴らないから、歩みを遅めに隣へ並ぶ。寝起きの頭にやけにじんわり幸福感が回って、もうそろそろ苦しいなあと思った。




たわいもない恋わずらい

- end -

2008-03


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