夜はふくらむ



ノンブルがちょうど百になったとき、下校時刻を知らせるトロイメライが遠く流れてきた。ページ数は区切りが良くても、物語はまだ解決の糸口すら見えていない。しかしそれから頑として読み続けた結果、じわじわ浸食してきていた日没は墨をかけたように濃くなり、やがて目を凝らしても活字を追えなくなってしまった。渋々諦めて本に栞を挟む。暮れきった図書室はちょっとした七不思議の舞台だ。ふと幼い頃の胸騒ぎを思い出す。僕は想像と現実の境目が曖昧な子供だった。
祖父の部屋で一人座って本を読んでいて、ふと見た押し入れの隙間が怖くなって逃げ、家じゅうの電気をつけてしまう。あるいは、このまま家族が帰ってこなかったら、という考えが頭をよぎり、慌てて居間のテレビをつける。今でこそただの笑い話だけど、当時は本当に怖かったのだ。天涯孤独になった場合の今夜の夕食について真剣に心配するくらいには、なんて言うと木野に笑いながら頭をはたかれたけど。


顔を上げると、たぶん数席となりで寝ている筈の、その木野の影が判別しきれないくらいになっていた。もう少し早く切り上げておけばよかったな。蛍光灯のスイッチは扉側にあるのに、窓際の席に座ったのも失敗だ。
億劫ながら立ち上がっておぼつかない足を進める。やっと探り当てたスイッチをてのひらで押すと、痛いくらいの白が数回点滅してぱっと点いた。途中で机にぶつけた膝が少し痛んで、たそがれは飛んでいく。追い出された闇は、窓の外で余計に色濃くなっていた。
席に戻りぎわ木野を見やると、まだ目を覚ます気配はなかった。突っ伏していて眩しくないせいもあるんだろうけど、どうやらよほど昏々と眠っているらしい。今日の授業中も時折船を漕いでいたのを思い出す。じゃあちゃんと家で寝なよ、と呆れながら、軽く呼びかけてみる。
 「木野、起きて。帰るよ」
しかし、うう、とかああ、とかちいさく唸るばかりで起き出す様子はなかった。まだ寝る、と言わんばかりに枕にした腕に顔をすりつけている。僕は人を寝かせるのは得意なつもりだけど起こすのは不得手らしい。
軽くためいきをつきながら、その背中を叩こうと手を置いた。すると穏やかな熱が伝ってくるように思えて、僕の心の中にある不本意なくすぶりがじわじわ延焼しだす。思わず退けてもまだ止まない。手のひらにはかたい背中の感触が残る。全く頭が痛い、そして頬が熱い。思春期の主張なんて無しの方向でお願いしたいのですが。不埒な考えを浮かぶそばから叩き落とす。いっそ、このまま電気消して置いてってやろうか。起きて驚くだろうな、そして困るんだろうな。
何でかいたたまれなくなって目を逸らすと、今度はがらんとした図書室がやけに寂しく見えた。ああ、なんか一人ぼっちの気分だ。木野が起きないから。今ならありありと思い出せる、世界から弾き出されたようなあの幼少の夜。得体の知れない不安と焦燥と居心地の悪さ。あの頃の僕は意外とよくがんばっていたんじゃないだろうか。そして今の僕はというと言うまでもなく。
 「起きろよ」
貸し出しカウンターにあった何かの小冊子をくるりと丸めて何かを振り切るように勢いよく木野のうしろ頭をはたいた。ぱあんと小気味いい音がした。人はたぶんこれを八つ当たりと言う。しかしまあ、読みかけの長編推理小説でなかっただけましじゃないだろうか。
 「…う?あ?」
木野はあわてて重たそうに頭を上げて、眠そうな目を白黒させた。叩かれたところを撫でながらきょろきょろ辺りを見回す。その表情はそうそう見れないくらいに気が抜けていた。ちょっと笑いをこらえる。しかしそのまぬけ顔に安堵するほど、どうやら僕も幼稚ではないらしい。
 「おはよう」
 「…はよ」
何事もなかったかのように木野に笑いかける。件の小冊子は後ろ手に机へ置いた。木野は不可解な起床が腑に落ちないようで不審そうに首を傾げる。その顔はなんだかいつもより幼く見えた。寝起きで頭の回転が悪いのかもしれない。どれだけ熟睡していたんだか。
 「寝てた…?」
木野はとても平和に間延びして聞きながら自分の首を揉みほぐしている。あの衝撃は気にしないことにしたらしい。音は大きかったけど、そう痛くはなかったようだ。瞬きを繰り返し、欠伸をかみころしする姿を見ていると、これはああでもしないと起きなかったなと推測できた。
 「一時間くらい。ゆうべ寝てなかったの?」
 「ちょっと、映画…見てたから」
 「夜、何かやってたっけ」
 「借りたやつ」
 「芳賀?」
 「ちげえよ」
軽い冗談として、アダルト向けの作品を好きと言ってはばからない友人の名前を挙げると、木野は即座にこちらを睨んだ。そろそろ頭も起きてきたようだ。それは放っておいて、映画、映画か。と僕は思った。おもしろそうなものをやっていないから最近あまり見ていない。事実、その題名を言われても今ひとつぴんとこなかった。まあ、そもそも僕はどの方面でもぴんとくるものの方が少ないんだけど。
 「青山に借りたんだけど」
 「ふうん」
結局あの二人のどっちかじゃないかと思っていたら、僕の視線を曲解したのか「やらしい奴じゃないからな」と念を押してきた。わかってるよ友人Aの性格くらい。
 「面白かった?」
 「…オススメって言ってたけど、何か途中でだれた」
 「じゃあ徹夜することなかったんじゃないの」
 「なんか寝れなくて暇だったんだよ」
 「恋煩い?」
 「オヤジかお前」
呆れた目をこちらに向けるけど、僕は目ざといのでごまかされない。顔赤いよ、と指さしてやると、木野は面食らって口をもごもごさせてちょっと言葉に詰まった。三国一の分かりやすさだと、今度は僕が呆れる。
 「図星?」
 「うっせ、寝起きだからだよ」
 「今、もっと赤いよ」
 「うるさい」
木野はそっぽを向いてしまった。そういう反応するからおもしろがられるんだよ、と親切に教えてやるつもりはない。おもしろがれなくなってしまう。
 「まあね、仕方ないよ。思春期だもんね」
 「ちっげえよ!そういうんじゃないし、お前ヨコシマなんだよ!」
口元だけで笑うと効果は覿面だったようで、思った通りに噛みついてきた。ここまで読み通りなのも珍しい。だけど今のからかいは跳弾になって自分の心もえぐってきたから、少し反省しようと思う。
 「…もうお前ヤダ」
木野はまた突っ伏してしまった。子供だなあ、と僕が笑うと、くぐもった声でまた怒った。もはや図書室に、さっきまでのあの気味悪さなんて影もない。そこにいるだけでぱっと明るくなる、というのはこういうことか。とはいえこんな場面で心が躍るのは変だろうか。確かに僕が僕の立ち位置にいる登場人物を描くならば、さっさと心痛ませるような気もする。まあ、そんなことはどうだっていいんだけど。


 「また寝ちゃうよ」
忠告してやると、そっぽを向いたままもぞもぞと姿勢を変えて、片方の頬を机にくっつけて腕を垂らした。それは首が痛くなるからやめた方がいいと思うけど、なんて言っても無駄だろう。ふと壁の時計を見ると、電車は何本か逃していそうだった。
 「そろそろ帰る?」
とりあえずさっきの本を鞄にしまって声をかける。早く続きを読みたいということもあった。木野は先ほどと同じくううとかああとか言って顔を上げない。ひょっとして早くも寝入りかけか、と思って強めに呼んでみると、返ってきたのは率直で馬鹿な言葉だった。
 「帰んのめんどい…」
だるい、眠い、疲れた、とさんざん怠そうに繰り返して不意に黙る。すかー、と穏やかな寝息が聞こえる。
 「寝るなよ」
今度は手で軽くはたいたから、ぺしん、と気の抜けた音がした。木野はむすっとした顔を上げてこちらを向いた。
 「やっぱさっきのお前か!」
 「僕じゃない方が怖いよ」
寝たり起きたり怒ったりと忙しい木野を放って僕はため息をつく。やっぱりこんな奴置いてとっとと帰っておけばよかったかなあとちょっと思った。そうすればいろいろと面倒なこともなかったのだ。だけど結局僕には叩き起こして絡まれるしか道がなかったんだろう。そしてそれが悲しいことにちょっと嬉しい。被虐的な趣味はないはずだ。
 「早くしないと置いていくよ」
鞄を持って戸を開けても木野は座ったままぐずぐずしている。やれやれ、と僕は踵を返して、机を挟んで木野を覗き込む。怪訝そうにこちらを見上げる木野に向かって、自分の作れる最大限のぞっとしない笑みを浮かべた。
 「知ってる?だいぶ昔の話だけど、この学校でね…」
人づてに聞いた怪談話に尾鰭と手足と目玉でもつけてみると、たちまち木野の顔が蒼白になりだした。その情けない顔を見て頬が勝手に笑ってしまう。嗜虐的な趣味もないはずだ。なので僕はこれを、好きな子にはいじわるしたくなるんです、と言う。だってまあ、まがりなりにも恋なのだ。


そしてその後街灯の明かりしかない帰り道で、いちいち物音に怯えながら腕にまとわりつかれてなんとも辟易したわけだけど、これは勝敗どっちなんだろう。




面倒きわまりないのです

- end -

2009-04


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