見違ったのだ



じいわじいわとせわしなく蝉が鳴く。あたかも日差しが照りつける擬音を兼ねているかのように。そんな往路を、私はのたくたと力なく歩く。アスファルトの照り返しに生気を奪われたかのように。辺りにはこの背丈をすっぽりと覆ってくれるだけの日陰もなく、しょうがなしに明るい中でずるずると歩を進めていた。
どうしてこんなに上背ばかり伸びてしまったのだろう。十六の頃の己はなぜこのような背の高い目線にあこがれたのだろう。夢想したほど愉快なこともなかったし、それほどいい目を見ることもなかったし、いい目をいい目と思えないほどには疲れてしまった。そういうわけで若い心をもう忘れてしまっている今の私は、すれちがう子どもらがきゃっきゃと日向を駆けていくのを朦朧と見やる。もったいない、あなた達ならほら、あの狭い日陰にもうまく隠れられるというのに。ああ、暑い。暑すぎる。

 「先生?」
体じゅう汗みずくになりながらふらふらしていると、唐突に声をかけられた。聞き違いかと思いながら振り向くと、一軒の家の前で水まきをしているうちのクラスの生徒がいた。いつも通り見ていて目眩のするような出で立ちだった。というか実際に少し立ちくらみを起こしたのでちょっとそのホースの水をかけてはいただけないでしょうか、とは思ったけれども一応は大人としてそのまま口には出せなかった。

 「どうしたんですか、汗びしょびしょですよ」
 「ちょっと、追い出されまして」
 「ええ?!」
驚きの表情を浮かべた木野くんは、黄色を基調とした極彩色のタンクトップの裾を片方で結んで脇腹を見せ、今時は半ズボンというのか短パンというのか別の呼び方なのか、ともかく丈の短い大きな花の飾りが裾に二つくっついた何とも言えない緑色のズボンを穿いて、恐竜なのか何なのか奇怪な生物の形をした、どこか生々しいオレンジ色のサンダルをつっかけていた。色の名前で言い表してはみたが、これで正答なのかは悩むところだ。
 「何でまた、あの子、小森さんにですか?」
 「いえ、まあ…そうです。無駄遣いをしたからでしょうか…」
 「…なんか先生情けないなあ」
君には言われたくない、という言葉を寸でで飲み込む。やはり給料日前に遊びもしないジオラマを注文してしまったのはまずかったか、と思ったからだ。たまには交に何か買ってやろうと思ったんですよ。そうしたらおもしろそうなものを見つけたんですよ。半ば私のために買ったと言われても仕方はないんですが、そして値札を一桁読み違えました。届いてから気づきましたが、なんかもうパニックになって隠しました。そのままやり過ごそうと思ったら見つかりました。もう返品はできないそうです。そしてこのざまです。理由を思い返すと本当に情けなかった。自分で驚いた。そしてふと振り向いてみたが常月さんはいなかった。ああまあね、暑いですもんね。ちゃんと追いなさい絶望しますから。

 「ともかく、そのままじゃ脱水症になっちゃいますよ。上がっていってください」
散らかってますけど、と木野くんはしょげ返る私を招き入れるように門を開けた。玄関に入ると途端にすっと冷えて、蝉の声がずっと遠くなった。



通された居間は板張りで確かに少々散らかっていた。積まれた本や洗濯物や新聞とチラシの束、背の低いテーブルとありふれた型のブラウン管テレビ。既視感があった。宿直室の手狭さに少し似ているのだ。私はあぐらをかいてテレビの前に座る。室内はエアコンが効いていて快適だった。差し出されたタオルで汗を拭い、急に冷えて張り付く着物の裏地に少々の不快さを覚えた。我慢できないほどではない。夏物だからすぐ乾くだろう。
 「どうぞ」
木野くんは氷が三つ四つ入ったグラスを持ってきて、なみなみと麦茶を注いでくれた。これが小森さんならば、ばてた体に冷たいものはよくないと言ってぬるくて薄いカルピスをなみなみと出してくれるところだ。そして自分と交と(おそらく私について回っている場合なら同じくばてているはずの)常月さんには、氷の入った冷たい甘いのをほどほどに。どういうわけだろうこの格差。やっぱり私が衝動買いをするからか。そもそも一応稼いでいるのは私なのだけれども。
 「どこ行くつもりだったんですか?」
 「…兄のところでも行こうかなと、そうしたらこの暑さで、辿りつく前にふらふらです」
麦茶を飲み干してふうと人心地ついた。そりゃあ夏の飲み物なんてキンキンと冷たい方がいいに決まっている。後から余計にだるくなろうが消化器系を冷やそうがそれほど構うものではない。そしてどうせならこれが麦酒であれば尚良かったが、それを昼日中から未成年に言い出すのはさすがに気がひけた。
 「今年も暑いですよね、夜中とかもう最悪」
 「蚊も多いですし、本当にもう…絶望する…」
 「まあまあ」
木野くんはひょいともう一杯注いでくれる。軽く会釈をして、今度はちびちびと風味を味わう。肌はべたべたとしたが汗はすっかり引いていた。何とも言えずノスタルジックだな、と思いがけず思う。

 「夏はいいですね、冷えた麦茶だけで幸せになる」
 「あ、先生がそういうこと言うのなんか意外」
私が呟くと木野くんは笑った。この少年の笑顔は見ていてどこか後ろめたくなる。つまり他人に好印象を抱かせる明るさがある。喩えこんな珍妙な、腹からびろびろ出ているタンクトップを着ていてもだ。恐ろしい。私は彼のぴかぴかした笑顔から麦茶のグラスへ、さりげなく目をそらした。そこで私の顔が歪むのも見ないふりをした。とっくに慣れっこだ。

 「なにか食べますか、って言ってもポテチくらいしかないけど」
木野くんは何にも気づいていない顔で立ち上がり、台所の戸棚をごそごそやりだした。ああいえおかまいなく、と言うか言わないかでポテトチップスの袋は発掘された。コンソメ味の袋をばりっと背中から開けてテーブルに広げる。パーティー開けというやつだ。食べてしまわないといけない開け方だが、もしくは彼が食べきってしまうのか。この油ものをぺろりなのか高校生は。ポテトチップス一つで色々な感想を抱きながら、私はぱりぱりとそれをつまんだ。コンソメ味のくどさと紙一重な濃さは割と好きではあった。いかんせん一袋は空けられないのだが。
もそもそとポテトチップを食べ麦茶を飲み、そういえば揚げ物と冷えたものというのはあまりよくないのではなかったかと私が思い出している間に木野くんは台所でばしゃばしゃと手を洗って、キヌサヤの入ったボウルを持ってきてぴっぴとすじを取り始めた。指先の案外ていねいな動きを眺めながら私はお手伝いをするんですねと言った。木野くんは別にこれくらいしかやれることないですけど、となんでもなく笑った。

 「今日はあとカレーあっためるだけなんで楽ですよ」
 「ほお。…カレーにキヌサヤ?」
 「はい」
 「和風カレーですか」
 「いいえ?普通の」
 「…サラダとか?」
 「つけあわせっていうかトッピングで」
私が首をひねると、少年も首をかしげた。タンクトップのびろびろもそよいだ。思いのほか白く細長い二の腕が伸びている。黒い目がぱちぱちと瞬く。私はまたたじろいだ。彼の目は真っ直ぐすぎて、他愛ない会話にそぐわない。

 「…変ですか?うちいっつもこうするんですけど」
 「普通…は煮物に合わせるくらいのような」
 「そうなんですか!」
 「え、あ…でも、私の家でしなかっただけで、なくはないと思いますよ。
  うちは食べ物に関してステレオタイプでしたから」
 「あ、ですよね」
 「はい…多分」
若干居心地悪く語尾を濁して返すと、彼は安心したように止めていた手を動かしだした。そもそもこれほど奇妙なセンスの子がどうして食事については「普通」かを懸念するのだろう。衣食住の衣が変なのになぜ食と住は普通なのだろう。私はまだ残る小さな疑問符に首を傾げては麦茶を飲み、なくなったので注ぎ足した。もしかするとそれはそれでありうるのかもしれない、と注ぎながら思った。キヌサヤも、変な少年の思う「普通」も。
そうこうするうちに、私は麦茶でポテトチップを半分近く食べていたし、少年はキヌサヤをすじ取り終わっていた。胸焼けがしないでもないが、まあなんとかなるだろう。私は小さくてあまり迷惑の生じない不道徳が好きだ。

木野くんはまたキヌサヤを台所へ持っていって、それからテレビをつけた。夕方のどうでもいいワイドショーだった。電波の無駄遣いではなかろうか、とよく思うやつだ。
 「こういうのいつも見るんですか」
 「いえ、全然。おもしろくないんですね」
 「おもしろくないですねえ」
 「こういうのでなんか食べるとき、んー!って口とじて言うの誰が始めたんですかね?」
 「いい観点です木野くん、いりませんよねこれ」
 「いりませんねえ」
 「正直、デパ地下をありがたがる意味もわかりません」
 「言うほどですよね、まあ旨いけど高いし」
麦茶をちびちび飲みながら意外なほど不満を言い合う。チャンネルを変えても似たような番組が似たようなものを流していた。子供番組で木野くんの好きそうな扮装をしていたがそれは五分程度で終わってしまって、小さな女の子が主役の料理番組のようなものに移った。木野くんは残念そうにまたリモコンを押して、結局最初の局になった。
 「ちょっとかっこよかったなあ、子供番組って案外センスいいんですね」
 「…そうですね」
私はああいう扮装を子どもはどう思うのだろうとかマスコットが少し怖かったけども子ども泣かないだろうかとか考えていたが、とりあえず頷いておいた。もしかするとこの子の方が多数派かもしれないこともありうるのだ。ワイドショーではどうでもいい芸能人の話をしている。ぼうっと見ながら、ああこいつ前あれと付き合っていたよな、そうなるとこことあれがこうなって、とかいうことを考える。劣悪なことだとは思うが止まらない。こいつ、と呼び捨ててみたモデルか何かの某の顔がテレビに映し出される。悪い妄想が止まらない。

 「先生、アイス食べますか。特売でいっぱい買ったんです」
木野くんの声に我に返った。一人でテレビ見てる気分だった。醜い目をしていやしなかったか、と思う。
 「はあ、じゃあ、頂きます」
答える前に木野くんは台所で冷凍庫を開けていた。冷たいのと油ものと冷たいの。しかもばて気味。正直この年でそのコンボは体調的にも冒険ではあったが、なんとなく流された。持ってきたアイスをとっとと開けて食べだしながら、ふぁい、とくぐもった声で私の分を差し出す。雑なのか礼儀正しいのか雑なのか。木野くんという子がどんどんわからなくなる。アイスは普通の、ミルク系の四角い棒アイスだった。ますますわからない。大きさが小さめであったのは少し助かる。向かいに座った木野くんの表情をうかがうと、目を細めてほんの少し幸せそうだった。自分だってお手軽なんじゃないか、と思う。
 「溶けちゃいますよ」
我に返って慌てて開けて食べた。いつ食べてもなつかしい味がする。知覚過敏の奥歯に少ししみる。でも甘い。冷たい。買って帰ってあげようか、とふと思う。財布にも小銭くらいならある。機嫌を直してくれるだろうか。それとも駄目だろうか。
 「…女の子が好きそうなアイスって何でしょう」
聞いてみると、木野くんはきょとんとした。しばらく考えた様子でいるので、ああやはり男子は女子のことはわからないかと思っていたら、思いのほかすらすらと答えられた。
 「バニラ嫌いな子はそういませんよ、あといちごとチョコは鉄板ですね。抹茶もわりと好きだと思うし、別にそんなに味に気を遣わなくてもコンビニとかで売ってるちょっと高めのアイスだったらどれでもテンション上げてくれるような気がします」
 「高め…」
 「言っても200円とか300円ですけど」
 「フルーツ乗ってるようなやつですか」
 「とか、なんか何とかケーキ味みたいなやつとか。適当に何個か買っていってあげたらどうですか?」
 「…参考になります」
食べ終わったアイスの棒を吸いながらそんなに的確なアドバイスをくれるとは思わなかった。ただ財布の中身が心配になってくるわけだけれども、どうだろう。今更ながらあの一桁違いが悔やまれる。そもそも生活費や何やらはある程度別に渡してあるのにどうしてあれほど怒られなければならないのだろう。つくづく自己管理のできない大人だ。あの娘たちがいなかったらそれなりの借金でも作っていたかもしれない。それを考えるとやはり感謝して余りあるのだが、そういえば食い扶持も増えているのではあるが。まあいいか細かいことは…とアイスの棒を吸いながら考える。あまい。

 「ボク、先生が暑さでしんじゃわなくてよかったです」

唐突な言葉を、私はうまく聞き取れなかった。しんじゃう、という少年の言い方が、あまりにもその意味にそぐわなかったからだ。彼の声から妙に浮き上がるボクという一人称も。ただぼんやりと、そういえば線路に飛び込もうとか思わなかったと考える。縁遠くなっている。面倒くさくなっている。誰も、しんじゃう、としか言えない彼も。いいことなのか、いいことなのだろうか。
 「…ありがとうございます」
半ば反射的に礼を言うと、木野くんはまた眩しい笑顔をした。誰かを思い出しそうで不思議に思う。まったく正反対の存在のように思っていたからだ。あの娘はどこか底知れず、この子は明快だと。もしかして彼は虚飾しているのか、と思う。正答のようでも誤答のようでもあった。タンクトップのびろびろも、不思議な花も、あるべくしてそこにある風に見えたからだ。いつのまにか結んだ裾は下りていた。隠れた腹の白さが思い出されて、先ほどアイスをくわえていた口元も連想される。どうかしてきている、と私は自分の頬を軽く張った。
 「蚊でもいましたか?」
 「ああ、はい」
生返事をすると、木野くんは蚊取り線香をつけた。その素直さがなんだかおかしくて、ああ大丈夫だ、と思った 。




どこかちぐはぐな子どものことを

- end -

2009-06


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