かじりつく



座って本を読む木野の目の前に佇んで、外に跳ねた髪の曲線をぼんやり見つめていたら、ふとこちらをすごくいぶかしげに見上げてきた。かむ?と反復するような口の形を見てああと思った。無意識につぶやいてしまっていたらしい。かみたい。
 「噛むって何をだよ」
 「お前をだよ」
問いには即座に返せたわりに思っていたより眠い声が出た。ふわふわ目眩に似た疲れが漂う。心の赴くままに行動することを止めるところが止まっていた。たらい回しの興味関心はするすると運動神経をすべりおりる。投げ出された左足を跨ぐようにソファに膝を乗り上げてそのままくったりと抱きかかってみたら、細くて締まった体から服越しにほのかな熱が伝う。ソファに座る自分の胸にしなだれかかる男、という奇怪なはずの接触にこれといった反応は返ってこない。僕はじんわりと依存みたいになりかねない気持ちを抱く。冷え切った手指で懐炉に触れたときの感覚だろうか、熱くないのに手をひっこめてしまうああいう。そんなには寒くなかったと思うんだけど今は体もあたまも。そのうちやれやれと閉口したように僕の後ろ頭を撫でてきた手がいっそ嬉しいほど自然で、だからこそ薄らむかついてくるのだという僕の頭の芯はいまだ重くてがらんどうだった。ぐずる赤ん坊みたいなむにゃむにゃした精神。


 「さてはお前また寝てねえな」
ご名答、おかげで鈍い頭には文字を追うことすらおっくうでひたすら手持ち無沙汰だった。働かない頭は酸欠みたいに空しく動く。恋しい足りない眠たい怠い。せっかく日曜日の朝から家に呼んだのにお前はさっきから早々と翻訳もののファンタジー小説を広げてしまっていたし、そもそもそれ僕が買ったやつだし買ったばっかりだし。心の声が聞こえたわけはないけど木野は本を傍らに置いてしまってずいとのぞきこんできた。いつもながら縁取りしたみたいに睫のくっきりした瞳をしている。ひんやりした右手が僕の頭を支えて前を向かせるのでそのていねいな造りを思った。長くて適度に節のある指はたぶん女の子受けがいいし、薄くて白い手のひらにはきっとそれなりに楽しい人生だという手相が入っている。見たことないしそんな知識もないしあんまり信じているわけでもないけど、ああでたらめだなもう。綿のかたまりみたいな倦怠感ばっかりぐるぐるしている。沈み込むような浮き上がるような。

 「やっぱ隈できてんぞ、顔真っ白だし」
そう咎めて目の下をそっとなぞる親指の冷たさだけが鋭利で、そらぞらしく頷き返しながら目をわずかに細めた。夢の中みたいなうっすらした浮遊感にだまされながら、顔の造作だけを見たなら本当に滑らかで正しくてきれいなのにとすぐ間近で思う。声の通りもいいし性格もそう悪いものじゃないし嘘ですこれくらいやさしい。しかしそれにしたってどうしようもないところがあるからあんまりよくないのだろう女の子たちにしても。今日は寒々しいくらいに丸ごと首や肩が出た、寝てない目には痛いような色合いの服を着ている。いやそれはもちろん冬だから上着は着てきてたけどそれもまたお馴染みのサイケ模様なアルミみたいに銀色のやつで、今は肘置きにだらしなく掛けられている。そこだけぽっかりと派手でなんか笑えた。ともかくも眼前に晒されたくっきりと浮き出た鎖骨だ、喉元だ。熱情すらも寝入りかけている頭では切羽つまったどうこうはないのだけど、ただなんかこうむしょうに噛みたい。ちなみに胃の中までどんよりと重いので空腹感はさほどない。どこからの欲求なんだか、と僕は首をかしげついでに一言訊いた。
 「噛んでいい?」
 「いいわけねえだろ、ていうかいったい何があったら男の肩とか噛みたくなるんだよ」
 「わかんない」
 「…お前今どんくらい寝てない?」
 「え…二日?かな」
 「いいから布団入ってこい」
 「やだ」
即答しながら左の肩口を丸く撫で回してみるとくすぐったそうに腰が退いたのでそのまま噛み付いた。いでっ、と抗議の声が上がるけども無視する。いちおう加減はした。首もとに頬をつけるも拍動する脈はつかめず、低い熱と身じろぎだけはやけにそのまま伝わってきた。情交みたい、と直截な連想をしても頭に血は上ってきてくれない。あれこれ考える部分はともかくとして痛む手前のこめかみとかにはありがたい話かもしれない。頭痛は痛いし高熱はつらい。あまり歯を鋭く立てすぎないようあぐあぐと顎を動かして食感を楽しむ。かみごたえはなんだか変な弾力で割と楽しい。しかし骨だか筋だかのぐにぐにとかたい歯応えは骨つきの鶏とかを連想させるものだけれども、すべすべと薄い皮膚はどこまでいっても薄い塩っぱさがするばかりだ。さほどおいしいものではないな。でもおいしかったらまずいね。
 「いったいし、くすぐったいしなんか怖えし!」
やめて、と艶も何もない声でぎいぎい言いながら僕の腕や肩を引き離そうとする手の力にいっさいの本気はない。むしろ手をかける格好をしただけにしか思えない弱さだ。怖くなんかないくせに、現に今笑ってる気がする見えないけど。くすぐったいからですか首が弱いんですか。首元に頭をすり寄せてしまっている僕に根っから何の疑念も持たない、許しや親愛だけを感じる無防備。やさしさはぜんぶ残酷で一緒だ。たやすい狼藉をしないでとどまるための柵を向こうから弱らせてくる、じゃれつく相手の真意を知らないでいてほしいのはもっぱらこちらの願いだけど。(だって僕はこの先なんか願っちゃいないそんな怖いこと誰に頼まれたって嫌だ、その線を越えてしまえばあとは崖かもしれない真っ逆さまに違いない。青ざめたあいつに突き落とされたならば僕は少しの段差であったって起きあがれなくなりそうに思う。どうかもうしばらく僕から離れないでください頼むから。なんにも抱いていないふりをしているからやり過ごすからどうかどうか。)体の熱が臆病にかみころされる分だけ心の熱感がみるみるふくらんできているのだろう。そんなものが歯から伝わったりするわけはないのに少しだけ上顎の方に圧が乗った。血が出たりしたらことだけれど僕の犬歯はあんまり尖ってはいない。
 「いてえよ」
 「ごめん」
 「噛みつきながら喋るってどういう状況だよ」
 「こういう状況でしょう」
 「どうなってんだよ今」
 「さあて」
中味のない応答をしながら背中までぎゅうと抱きしめる。木野は手持ちぶさたなのか僕の背中を寝かしつける真似みたいに叩く。僕は乳歯の歯がためをしているような遠い遠い既視感で眩んだ。何をやったっていいぬいぐるみがいた頃とは違うのに違わない。こいつは僕にどれだけ線引きを緩める気だろう、僕はいつまで甘んじていたがるのだろう。うまく制御しきれていない状態でだってできるのはここまでだ。寝足りない頭にはこんな持て余しっぱなしの恒久課題なんて重すぎた。先送り先送り。そのままずるずると煙になりたい。ずらした手の下に肩胛骨のするどい丸みがある。うっとうしい飾りとないまぜに感じた。木野はあたたかくて落ち着いていて困っておもしろがっている。目の奥にこみあげるぬるい湿り気を眠気のせいにしてそろそろ飽きちゃったことにしてみた。とどめにがぶりとやっても狼さんは起きてこない。男子の常として少しだけ自分が心配。鎖骨の上あたりにてらてら光る仄赤い歯形を一舐めして口を離すと木野は案の定少しの赤みや青みすら浮かんでいない顔であきれたように僕を見たので、ごめんねと一言言って噛んでいない方の肩にずるずると寄り掛かった。ソファのスプリングがぎしりと軋む。奴もきっと僕の時々のわからなさには慣れているはずだ。


 「なんか、猫でも飼ってる感じだな」
木野がつぶやいたのでそっと体を離して見上げるとおかしそうに口角をあげていた。僕は困惑を眉間に込めて黙っていた。あんまりこいつのわからなさに慣れられそうにない。ふつう友達に噛まれてそんなこと言うかな、いやふつう友達は噛むものじゃないけど。変なのは服だけだと思ってたらそうでもないから油断ができないのだ。というか根本から少しずれてるから服装も奇怪になるんだということをつい見過ごしてしまう。もしかしてこれ以上深入ったことをやったとしても案外こういうふざけた受け取り方を、いやいやしたくないわけじゃないけどできないたまらない。複雑な気持ちでぽすんとまた寄りかかる。本当にどこまでまったく平気でいてくれるのかがわからないんだよお前は。いつ踏み外してしまうかと思って怖がってる方の身にもなってほしいんだけど、そんなことをされたら僕は倒れてしまうねそういえば。あ、なんか笑えてきた。今頃かすかに肩を揺らして笑ってしまったので今度はあっちが首をかしげたんじゃないかと思う。好きだと言って口をくっつけたとしても同じような反応するのかなお前は。できないからしないけどおそらく。
 「眠い?」
 「わかんない」
 「寝るんなら言えよ運ぶから、ってか俺お前が寝ちゃってもこの家居ていいのか」
 「あー…このまま寝ていい?」
 「疑問に答えろよ。いいけど別にこの通りかたいし薄いぞ」
 「全然いい」
 「あと完全寝たら布団連れてくからな、あれまだ読みたいし」
 「わかった」


ぽつぽつと会話しながら、浮いたり沈んだりまったく不安定で情けないことになってるなあ僕と自嘲する。むずがゆいことを考えるのも面倒がる頭を預けるともう一度くしゃくしゃ撫でてきたので、起きたら僕だけさっぱり忘れていますようにと祈ってやっと忍び寄る睡魔にまぶたを任せた。




ねむれねむれよ眠らぬ心

- end -

2010-02


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