ありか



物心ついたときから人と「心を通わせた」記憶がなかった。手のかからない子供を両親は一人で遊ばせていてもいいと判断して、僕はその通り放っておかれても何の問題もなかった。きっと当時から置かれた立場に慣れることが苦ではなかったんだと思う。物語の中で遊ぶのはすばらしく面白かった。その内にあの人たちの仲はすっかり冷えてしまってそれぞれ好きに楽しく生きようとしはじめたけれど、輪をかけて奔放にされたところで僕に影響することはさほどなかった。幸運なことに金銭面や生活環境はきちんと用意してくれる親だったから、困るのはあたたかいものを食べたいときに自分で用意するしかないことくらいだ。

父方の祖父母はなにかと僕を気遣ってくれたけれど遠方に住んでいるから会う機会は今も少ない。小学生のころ夏休みなんかに遊びに行くと楽しくて、どっさりの本を読めたしたくさんの話を聞けた。骨董好きの祖父がやんちゃ坊主のような笑みを浮かべて、高かったという皿をこっそり見せてくれるときにはふしぎな高揚感がした。思えばその頃は祖父母が一番近しく親しい人間のようだった。けれど老齢で遠く暮らす彼らはやっぱり自分にとって漠然とした存在で、一番知りたい根本のところがよく掴めなかった。きっとまだ理解しやすいはずの同級生の中では僕はまるっきり浮いていて、うまく近寄れずに反発されて、だんだん上手にいなして溶け込む術だけを学びとった。がらんと広い家に不自由なく僕は育ち、ざわつく教室でにこやかに過ごしていた。


しだいに誰の感情や行動や思惑でもとてもわかりやすく読めるようになったけれど、起伏や欲求や感傷がどこから出てくるのかは今ひとつ知らなかった。それが心というものかと思った。そういう風なものについて書いてありそうな本を手当たり次第に読んだ。知識としては身に付いたけれど、根ざしてはいなかった。僕は何でも読みつづけた。すると心が躍ることはすべて本の中にあって、言い換えると周囲にあるのはほとんど読み通りの事柄ばかりになった。それはどうにもつまらないことに思えた。しかしどれだけ予想外のことを願っても、そんなことは何も起きないのだ。みんな予期した通りに人々は回っている。けれどもどうして回ってしまうのかがなかなかわからない。僕は料理が上手になった。自分の作る味には飽きていて、わざと適当に作ったりもしていた。

それから僕は頭の中に渦巻く疑問や誰かの中味についての分析を、本を読んで学んだ定型を使って物語として語りはじめた。要はあの人はこう言えばどう感じるかという反応に対する実験だった。僕は天才と呼ばれるようになった。案外みんなくだらないことで泣くのだなあと僕は冷めはじめる。感情はたやすく因果を作れるような単純なものじゃないと思いたかったのだろうか。手の届かない生身の熱量であってほしかったのかもしれない。我ながら安っぽいものしか作れなかったけれど、話を作ること自体は少し楽しかった。読みつづけて作りつづけた。そろそろ面白い本はほとんど読んでしまったのではないかと思うようになっていった。新しい本は指を切るばかりでそれほどいい作品に出会わなかった。それでも心が揺らぐことを求めて本をあさった。どんなお粗末な悲しさを描いても人々は拍手をくれた。出来合いの死人はたくさんの涙を誘った。想定できなかった反論が投げつけられることを祈って話を作った。親は何も言わないし、僕は何も思わない。今思うと、すべてがらんどうだった。

 

 

 

何年も過ぎて、中学生になった。僕は家の近くにあった公立中学に入った。難しくてお金のかかる学校を勧められたけれど、いろいろと面倒に思って受験はしなかった。後になってその選択を大いに喜ぶことになるのは知らなかった。入学して一週間もしない頃か、ある日僕は図書室を訪れた。一通り本棚を見て回るためだ。蔵書はそんなに多くなかったものの、それでもまだ読んだことのない本はざくざくあった。かたっぱしから読んでいっても夏まではもつだろう。僕は満足してさっそく一冊引き抜いて、思いついたことをメモするために携えていたノートをそこらへんに置いた。そのころになると僕の頭はふとしたきっかけで物語がいっぱいに浮かぶようになっていて、発散しておかないと足下がふらついて困ったのだ。そうして適当な席に座って、一時間もせずにその本を読み終わる。何だったかはもう忘れてしまったけれど、顔を上げたときに窓から見えた夕空がきれいだったから、なかなかいい本ではあったのだろう。図書室は元から少なかった利用者がすっかり帰っていて、貸し出しカウンターに数人だけやる気もなさそうに座っていた。僕は本をしまおうと立ち上がって、本棚の奥へと歩いていった。そこに人影があって思わず目を細める。一年生らしい少年がノートを開いて読みふけっていた。緑色の表紙で題名があって、まずまちがいなく僕のだった。


 「あの、それ、僕のなんだ」


少年に歩み寄って遠慮がちに声をかけた。もうそろそろ帰ろうと思っていたので、ノートは返してもらいたかった。少年はびくついたように顔を上げた。白い頬に涙のすじが残って、ぱちぱちまばたきして上書きされる。僕は半ば乾いた頭でそれを見ていた。言っては悪いけれど、感動されることには飽きていた。ただただ惰性のように話を生産して、習性のように本を読んでいた。それに何かを求めることもなくなっていた。だからそのときも何も考えないで次に彼が何と言うかを予想した。何だよこれ、お前すごいな、作家になりたいのか…目を輝かせてこちらに詰め寄る。まあこんなところだろう、直情的で友好的な人間に見える。きっとあくまで自分の思うことに素直に動くタイプだ。損得を割り切っているともとれるくらいに。僕はにっこりと笑いかけて、そうしてぎょっとした。少年がきっとこちらを睨んでいたからだ。今までにないことだった。思いがけず期待がよぎる。瞬間的に予想がめぐる。少年の目はつりあがって明るかった。見開いたままの目で見つめた。彼が大きく息を吸った。


 「…まっ、負けてねえからな!!」


場にそぐわない音量でまだ声変わりしきっていない声で、彼は叫んだ。まっすぐに人差し指を僕につきつける。何を言ったのかも一瞬わからなかったが、聞き返す前に意味がとれた。負けてない、って、どういうことだ。黒い目が迷いもなく僕を射抜く。けれども叫んでから恥ずかしくなったのかじわじわ頬を赤くして、僕にノートを押しつけるように返すと隣をすりぬけて駆け足で逃げてしまった。赤い耳の残像がしばらく頭に残る。僕はあっけにとられて真新しい学生服を彼が駆け抜けていく風で揺らした。くるくると彼の声が回っていて、振り向いてみても影も形もない。いったいなんだったんだ。僕がとっさに考えたどの答えもきれいに外れていた。そんなの思いつくものではない。負けてない?泣いたら負けってことかな。そのわりにはあっけなく泣いてたじゃないか。ていうか泣いてる時点で負けたんじゃないか。しかも泣いてないとは言わないんだ。あまのじゃくなのかストレートなのか。わからない。知りたい。どういうことでどうなって、そしたら僕はどうするんだろう。知っても知っても知り尽くせないかもしれないと思った。好奇の波があふれだす胸を片手でおさえる。発生源は心臓なのかもしれない、高揚感がした。自分の頬が熱くて口元がゆるんでいることに、もう片方の手で覆ってからやっと気がつく。心というものがどこにある何なのかを、知りたかったんだと不意に思い出した。




まじわりはじまり

- end -

2010-03


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