いつでも春のような雰囲気をまとった少女は、今日も長い髪を高く不器用に結わえてのんびりと授業が始まるのを待っている。木でできた簡素な椅子にゆったり座って首を少しかしげて、胸元に見あたらないリボンは髪留めに、ずるずると長い袖をだらりと椅子の両脇に落ち着け、心持ち楽しそうに口元をゆるませていた。黒目がちで目尻の少し下がった目は宙の一点を見つめ、思い出したように何回かまばたきをする。ちょうど白や黄色の蝶々でも寝癖の残る頭にとまらせていそうな、そういう少女だった。机に広げてある緻密なノートがそんな印象を裏切ってしばしば人を驚かせるけれど、彼女は誰がその明晰な頭に目を見張っても、黙ってどこかを見たままにほほえんでいた。窓の外では高く日が照りつけ、青空に雲が眠たい速度でよぎっている。少女は彼女にとっての早朝から授業が始まるのを待っている。焦れた様子も困った様子もなく、教室の真ん中少し廊下側に位置する自分の席で袴姿の教師を待っていた。担任のことをそう正確に認識しているのかは、まだ今ひとつ定かでない。
「あれ、大浦?」
出し抜けにがらりと教室前方の戸が開いて、珍奇な重ね着をした少年に快活そうに声をかけられ、大浦と呼ばれた少女は何拍か遅れてゆるゆるとそちらを振り向いた。彼の登場に彼女がいくぶんか余計に喜色をたたえたように思われたので、戸を開けた少年は静かに苦笑した。弱った様子も不安な様子も見られなかったが、さすがの彼女も少しだけ主人を待つ犬のような心細さを抱いていたらしい。左右に小さく体を揺らすたびにしっぽのような結わえ髪が振れる。少年は慣れた様子で彼女の席に歩み寄り、童女を眺める親のような笑みをたたえて言った。そういう大人びたものは彼の数多い表情の中でもめずらしい部類だった。
「大浦、今日は祝日で、学校は休みだよ」
「…ああ、そっかあ」
少女が間延びして答えたので、彼はもう一度困った笑顔になった。彼女が登校する日や時間を間違えることはこの教室の面々にとってほぼ恒例のようになっている。時計は既に1時半を指し示し、うらうらと暖かい教室には当然ながら彼と彼女以外の人はいない。校舎全体を見ても何名かの教師と熱心な運動部の部員くらいしか来ていないと推測される。この教室の面々にはそういう青少年然とした行動を好む人間は何人もいなかったが、恋に突進する少女たちは多くいた。なのでとある一角というかある人物の周囲が賑わっている可能性は大きかったが、この教室はおそらく今日一日がらんとしているままだろう。のどかな少女と朗らかな少年は、特にそういうことを気にしないまま歓談に興じるようだった。
「あいかわらず平和だよなあ、ほほえましいっていうか何ていうか」
「そーお?」
「そうだよ、でもみんな和んでるからそれでいいと思うけどな」
「いいの?」
「いいよ」
「よかったあ」
何とも毒気のない会話をしながらにこにこと笑い合う二人をあたたかな陽光が包む。見る人が見たらうっかり泣いてしまいそうな光景である。日頃から過激な面々の起こす騒動やら喧噪に慣れきっている厄介な担任教師などであったら、いっそ何やら理不尽に激高しかねない。ともあれここには誰もいないので何事も起きないのだが。そしてたとえ何が起きたとしても、おそらく彼と彼女はふしぎそうに首をかしげるだけだ。
「木野くんはあ、なんで来たの?」
「ああそうだ、忘れ物取りに来たんだ」
「わすれもの」
「英語のノート、こないだの範囲あんまわかんなかったのに持って帰るの忘れてて」
「ほうほう」
「で、取りに行くついでにここで勉強しようと思って、家じゃ身に入んないから」
「えらいねえ」
「だろ?」
自分の机を漁りながら少年は得意そうに口角を上げる。彼は社会常識などにおいては、まあまだそこそこ及第点をもらえないでもなかったが、学力は彼女と比べると雲泥の差であった。それは少女が賢すぎるということで致し方なくもあり、彼は自分がそれと定めた相手にだけ対抗心を燃やす質だったのでそこに問題は生じない。しかし彼と彼のライバルの間にも正直かなりの落差があり、結局のところ彼はそのために努力を惜しまないのであった。しかもそんなに要領よくこつを掴む方ではなく、なかなか空回りをしている。
「あ、大浦、腹減ってない?」
少年は思いついたように言うと彼女の前の席に移動して、持っていた鞄をごそごそと開いた。少女は思い出したようにうなずくと彼の頭越しにどこか宙を見ることをやめて、少年の様子をじっと眺めた。春の日差しに軽く汗ばんだ少年が白い開襟シャツの上に重ねて着ているTシャツは、彼の代名詞と言える奇怪な異様さの柄と風合いだった。しかし彼女がそれにおびえることもひきつることもなかったから、人がいない森の美しい娘といったような哲学的問答が成立しそうな気配である。彼があくまで無自覚であることもそれを手伝った。
「あんぱんとカレーパンと、グラタンコロッケパンだったらどれがいい?」
「あんぱんがいいなあ」
「おっ、それはよかった」
あとの二つがメインだから、と少年は笑いながらあんぱんの袋をノートの上にのせて、自分はコロッケパンの袋をやぶってかぶりついた。少女を半ば振り向くように横向きで椅子に座ったままで、彼が座った机に置かれたコンビニの袋には、まだ他にも菓子や雑誌などが入っている。少女はまた遅れぎみにあんぱんを手にとって袋をやぶこうとして、ビニールがゆっくりと伸びるだけに終わった。あれえ、と笑う少女に少年がおかしそうに口元を覆って、貸してみ、とそれを引き受ける。無事にあんぱんを食べられることになった少女は黙々とかじりついて、パンのくずを下にほろほろと落とした。少年が気づいて開いたままのノートを片付けようとして、その精密さに改めて感嘆の顔をする。片手で残り半分のパンを持ったまま数学のノートを一番最初から読んでいく少年を何ら意にも介さず、少女はあんぱんをゆっくり食べた。彼が分厚いノートに集中して目を通し終わってもまだあんぱんの大部分が残っていて、顔を上げた少年が思わずまた笑いをこらえた。
さながらそこにはのどかの“の”
- end -
2010-04