夜長



喉が渇いて台所に行って、コップに水を注いで飲んだ。外国の山の湧き水、というラベルと表示を読むでもなく読んで冷蔵庫にしまう。振り向くと窓から白い月が空ろに見えて、一人きりの夜なんだなあと今更に思った。言うまでもなく毎日、ここ数年あるいは今までずっとそうだというのに。過ごす相手もことさら作ったことはないし、記憶も残っていない。書き物は進まなくて夜はひたすらに長い。静まり返る中でぼうっと座っている。あの窓からあっけなく朝が訪れるのを待つ。
文章をこねまわしてもちっとも中味が降りてきやしないという体験を知ったのはいつごろだったか。生まれてこの方こぼれるほど思い付いていたのに、とあぜんとして笑って、ほどなくおもしろがる気持ちも失せて床に背中を放り出すようになった。もちろん上達はした。昔より整った、読み応えや趣向のあるものを書けるようになった。だれもしなせずとも山や谷を築き、ぷつりとも切らさず淡々と繋げて、時には緻密にこんがらがって解いて、まったくあっけにとらせることもできる。泣ける。ほっとする。売れる。それだけだ。渇く喉に残った水を流し込む。なにも思いつかないまま起きている。なにも思いつかないまま生きている。がらんと広い家にすべてを持て余している。

ふと新刊はもう彼らに届いただろうかと思った。あげると言うのに買うと言う二人が一緒に住むという葉書をくれて、一冊で済むねとからかいの電話をしたのは一昨年のことだ。つまらない本は読まれているのだろうか。見抜いて心配される空想は実現していない。今はそれでなくても手一杯だろうと自分を苦く諫める。寄り添い守り合うように暮らす若い彼と彼女に苦労があることくらい薄々わかっていた。独立できるとかまだ無理だとか、遙かに見える夢のように聞いた。この夜空の下で彼らは幸せだろうか。まだ楽ではなくとも穏やかな日々を共有しているのだろうか。彼らのためとか言ってあれこれ画策できた期間は過ぎてしまった。学生の狭い半径ではないのだから、浅知恵でお節介を焼くことはもう意味を持たない。僕の手が届かない地点に二人はいる。それだけだ。せめて今笑いあっていたらいいのにと思って、ふっと秒針が音を立てない時計を見てもう寝ているかと気付く。
そんな風にして何事か浮かんできたけれどもそんなことは書けないだろうと自嘲した。それでもきっかけにはなって二つ三つを手元のメモに書き留める。ついでにどこかの会社から何かの礼で貰えるもののリストの並びに高い蟹があったことを思い出して、お裾分けという名目にして明日の昼にでも電話をしてみようということも書き加える。ああ結局これはお節介じゃないかと一人笑い、その頃には思いつきも霧散していて、夜長はまだもうしばらく続くのだ。

 

◇◇◇

 

同棲中、の部屋に真夜中帰り着いて寝室の戸を開けたらぐすぐす泣き声が聞こえた。くたびれの怠さから一瞬で血の気が引き、薄暗いなかで慌てて静かに枕元に向かう。安いベッドの布団は丸くなった彼女をすっぽりと隠していて、卓上の電気がオレンジに点っている。灰色のやつに替えたカーテンは閉めてあって床にはごみ箱に捨て損ねたのかチョコレートの小さな包み紙と、ティッシュの箱や取り落とした本がばらばらと散らばっていた。几帳面な彼女がこういうことをするときは本当に弱りきったときで、自力で少しでも落ち着こうとしたのだろうと胸がきしんだ。傍らにいられないもどかしさと側にいたって何にもならないんじゃないかという悔しさが綯い交ぜになる。それらを押しとどめて俺はゆっくりと口を開いた。
 「どした?」
ただいま、より早くできる限りやさしく尋ねる。扉に背中を向けてちぢこまっていた加賀がのろのろと緩んで、こちらに寝返りを打つ。かぶっていた布団を引いて顔を覗かせると、乏しい光源で涙の滴が睫毛にゆらめく。ひくり、と白い喉がひきつって揺れる。背中をかがめて指で涙をぬぐってやると、洗ったばかりの手が冷たかったのかびくりと目を閉じた。暗さに慣れた目に、安心したと微笑みたかったけどまたしゃくり上げてしまった泣き顔が見える。俺もほっとした顔が少しぎこちない気がしていた。だいじょうぶだと伝えたくて小さな頭を手のひらで撫でる。まばたきを何回かして枕に広がる洗い髪に涙が伝い落ちる。きれいだ。
 「ねられないんです」
加賀は童女のようにあどけなく言った。やっと浮かんだ苦笑いはぽっかり疲れていた。また頭のなかで電流がぱちぱち弾けたらしい、一日と歯車があわないのはつらいことだ。加賀がせがむように力なく俺の袖をつかむ。俺は床に膝をついてしゃがんで、いつだかに教えてもらった寝物語を始めた。こつはゆっくりと穏やかにいい夢を呼び込むようにやること。話の筋を凝ったつくりにしないで、ほどほどに引き込むこと。やさしい人たちの何気ない話をすること。結構かかったけれどしばらくして加賀はうとうとと目を瞬かせて、髪をそっと梳いてやるうちにやがて眠った。受け止める手に落ちるようだと思った。もう片方の手はいつのまにか握りこまれていて、完全に寝入ったらほどいて俺も寝ようと思った。

 「おやすみ」
おしまい、の代わりにささやいて、加賀が来てからずいぶんおとなしく片付けた部屋のなかで加賀が過ごす時間を思った。俺は近頃やけに忙しくて加賀の作るご飯を食べることもできない。触れ合う時間もとれない、話すのも充分じゃない。ろくに張り合いのある忙しさでもないのに。俺じゃなくてもいいとか、俺のしたいことじゃないとか、そこじゃなくてきっと時間を使い込んでいくことがわびしい。食っていくために悲しくなるか、生きていくために苦しくなるか。弱音を吐いたらきりがない。さびしい、二人で住んでるのに何で二人とも寂しいんだ。加賀と睦まじく生きたい。夢はまだ叶わない。ふとあざやかに高校時代を思い出す。きらきらきらきらばからしく光っていたようなことを思った。灰色のカーテンの向こうには帰りしな見た薄い月がある。それと同じくらい遠くなっていた。涙腺がつんとする。止めようとしても止まらない。あいつの顔が見たい、あきれて笑われて泣きたい。遠い遠い世界になってしまったあの頃とあいつをぐるぐる考える。嫉妬なんかなくてそれこそ途方もなかった。当然であったし完全であった。反射みたいにほろほろ泣いて、握られた手にきゅうと縋るように頬をつける。唸り声なんか立てないように気をつけた。このあたたかみに温んでいくのは俺だ。あの輝きに眩んでいるのは俺だ。しまいこんでいるあの世界の服に袖を通すこともとうになくなって、本を読むことも忘れてしまっている。ああそうだあいつの本、とまで思って、それからはなんだかぐちゃぐちゃに黙って加賀の眠るベッドに突っ伏していつしかそのまま眠った。




もう少しばかり遠く

- end -

2010-05


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