薄暮



転た寝をしてしまったようだった。目を覚ますと室内はもう暮れ方のくすんだ青色で、わたしは並べた座布団に仰向けになって、見回しても先生がいなかった。思わず起き上がると頭がふらりとした。寝起きの怠さで体が重たい。袴も脱いでいないから余計にだろう。けど今そんなことはどうだっていい、わたしの至上のひとはどこなの。

 「あ、起きたんだ」
細い声に目線をやると、座敷童が流しの前でこちらを振り返っていた。毛布はやはりかぶったまま、夕食の支度をしているらしい。汚れたりコンロの火が移ったらどうするのだろう、そうなったって何にもしてあげないけれど。西の採光窓から落ちた夕日の名残で、妖怪女の右手の包丁が鈍くきらめく。でもそれは、妖怪がかちりと押した灯りのスイッチで消えた。
 「そんな格好で寝たら肩こっちゃうよ」
 「先生はどこ」
 「さっき交くんとスーパーに行った、すぐ帰ってくると思う」
すぐ?すぐっていつのこと。最寄りのスーパーは売り場を歩く順番まで把握している。それからコンビニへ寄り道する頻度で言うと今日もありうる。追いかけなくてはと思って立ち上がると足元がよろけた。倒れ込みかけた背中をすかさず細い腕が留める。
 「危ないなあ、もう少し寝てたら?」
 「いいから、離して」
 「だめ、飛び出していく気でしょ。あぶない」
座敷童はするりとわたしを背後から抱きすくめた。何が危ないだ、日頃よっぽど暴力沙汰をしている相手に。両腕ごと捕まえるのは少々もがいても抜けられない強さだった。白い手がお腹の辺りにしなやかに巻きついている。背もこちらより少し低いくせに、妖怪みたいなあだ名がついていたら妖怪みたいになるんだろうか。

 「まといちゃんの後ろを取れるなんて、ちょっとないよね」
耳元で呑気なことを言うその表情は見えない。邪魔しないでよ、とこちらの顔は険しくなる。早く行かないと先生、先生。こんな距離だめ耐えられない。片時も離れていてはだめなのに、付き従っていたいのに。だってそうしないと先生がどうしてるかわからない、どうなっちゃうかもわからないのに。
 「そんなにずっと一緒にいたいの?」
 「決まってるでしょ!先生、先生、もしかしてあんたが隠してるんじゃないでしょうね!?」
 「買い物に行ってるって言ったでしょ、落ち着きなよ」
淡々とした声に怒りを覚える。あんたなんかに何がわかるの、ずっと怠惰に宿直室へ巣くって先生の仕事の手助けもしないで、ままごとみたいなことをしてるか押し入れに収まるか、年端もいかないこどもの鑑賞に気色悪く耽るか。そのくせべったりと甲斐甲斐しい真似をして先生をほだそうとすることばっかり上手で。そう荒げるくらいに続けようとしたけど、あんた、までしか声が出なかった。ひどい目眩がしたのだ。

 「あらら、だから言ったのに」
不覚にも座敷童に寄り掛かってしまい、支えられて座布団に座り込んだ。へたりこんだようだった。蛍光灯の灯りがちかちか霞んで見える。やわらかい薄あたたかい手が額に押し当てられた。悔しいくらい細くて白かった。先生が病的なくらい色の白い子を好きだなんてとっくに知ってる。やさしくてやわらかくて美しくて小さな、従順で世話焼きで甘やかしの甘ったれの、そのくせ妙に冷静で聡いような女の子の方が好きってことくらい、ずっと前から。
 「汗かいてる、何か飲む?カルピスでいいか」
流れるような仕草で立ち働くからあっという間にカルピスが出てくる。喉の渇きには勝てなくて仕方なく受け取った。飲み干すと乳くさくて甘酸っぱくて喉に残るから悲しくなった。恋はこんな味だなんて誰がぬかしたのだろう。苦い苦いわたしの恋。からっぽの中に氷がかろんと鳴る。先生、先生。
 「泣かないで、もうじき帰ってくるから」
こもりっきりは目の前に腰を下ろして細い親指で私の頬を撫でた。泣いてないわよ、とひきつる喉で言った。視界が少し滲んだだけだ。座敷童の表情は覆いかぶさる黒い髪で半分がた隠れてやっぱり見えない。こちらをじっと見ているのだけはわかった。こんな格好でちっとも不潔じゃなくてむしろ清らかなくらいに見えるのが本当にきらいだった。

 「追いかけたいのもそこまでいくと本物だよね」
頭を包むように撫でてくる掌を突っ撥ねる元気もなくなった。冷たいグラスを両手で強く包み込む。その込める力の強さに呼応してか、引き寄せるように抱きしめられる。ぽすん、とこめかみの辺りがやわらかい胸に包まれた。学校にいるのに学校にいかない子の学校指定の体操服は白い。肌身離さない毛布をそっとわたしの方にまで引っ張って、届かなかった背中をぽんぽん撫でる。わたしを挟むように密着している脚はジャージのかたい布地越しに、棒っきれのようでやっぱり華奢だ。
 「うるさい、引きこもり、座敷童、毛布オバケ」
子供のような雑言をもごもご繰り返す。じわりとまた滲む涙をとどめる。この慈しむような気持ちよさ心地よさに膝をついてなるものか。でも抗って払いのけて蹴り飛ばすことが力抜けてしまってできない。うれしいとよろこびと安堵に似ている。馬鹿みたい。頭をやさしく撫でる手は同じ策士の策の内でだからきっとやさしくなんかないんだ。


 「まといちゃん、わたしね」
何も言わないでほしい、鈴の声といい香りとやわらかさとあたたかみがわたしの矜持のようなものを飲んでしまう。か細い女の子にすべてを奪い去られる。きっとこのまま吸収されたって眠るように消えてしまえる。負けたくないのに。好きたくないのに。だってそんなの惨めすぎるのに。
 「こうしてみると、あなたのことすごくかわいい」
耳に収めることを強いる彼女の呟きは、わたしを一瞬しびれさせてから溶けて消えて溶けて消えさせた。

きっとあの華奢な背中からは薄く透けた羽が生えてうつくしい羽虫になる。妖怪、妖精、女神さま。美しい顔をあのひとにしか見せないなんて言い切るあなたが一番きらい。

 


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  (蛇足)

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 「おや、珍しい」
せんせいの声にふと目をそちらへやると、せんせいと交くんが目を丸くして出入り口に立っていた。わたしの胸に寄りかかって眠り込む少女を見ている。少し泣いてからまたふっつりと眠ってしまったから、かれこれ十分はこの体勢でいる。わたしは台所との仕切りの壁にきゅうくつに凭れている。まといちゃんが放したグラスは転がすように畳に置いてある。
 「置いていくし帰ってこないから泣いちゃったんだよ」
 「…それは私が悪いことなんでしょうかね、確かに寄り道はしましたけど」
ぐっすり昼寝しているようだから平気だと思ったんですよ、とひとりごちながらも彼女の小さな後ろ頭をぎこちなく節ばった手が撫でる。こちらの二の腕あたりをゆるく掴む左の手指が、無意識だろうに握る手をきゅっと強くした。寝顔はせんせいからはよく見えるだろうけどわたしにはちょうど見えない。

 「まとい姉ちゃん疲れてんのかな」
きり姉ちゃんに抱っこされて寝てるなんて、とそこそこ失礼なことを言いながら、交くんは買い物袋からお菓子を一つ出して、まとい姉ちゃんにあげる、とお供えみたいに卓上へ置いた。いい子いい子、とふさがっている両手の代わりにそっと口頭で言う。なんとなく彼女の背中で組んでからなんとなく動かせない手。
 「寝てるとかわいらしいんですけどね、まるで童女のようで」
せんせいは苦笑いして言う。動けないから覗きこめないわたしは、どうせだから写真を撮ってほしい、と嫌がらせの提案みたいに返した。力なくわたしの胸元に置かれている握り拳が赤ちゃんのようなかわいい写真。そしてそれは自室と化してる押し入れの壁か天井、あるいは秘密基地にした準備室にでもこっそり丁寧に貼っておくのだ。
 「…容量ありましたっけねえ」
せんせいは律儀にデジカメを引っ張りだしてくれた。はいチーズ、と小声で言ってフラッシュ焚かずにぱしゃり、見せてもらうと少し暗いけど画面の真ん中にばっちり撮れてる。交くんのために室内撮影向きの機種を買ったのが功を奏したようだった。初心者の機械音痴にも簡単なつくりだし。

二枚目はちょっと引きにして交くんが隣で笑い顔のままピース。せんせいも案外悪のりする人だよね、とわたしはふふっと笑う。そうしたら眠るストーカー女がむにゃむにゃうわごとを言ったから皆どっきりして少し固まった。そんなにはやましいことしてないけど。
 「…ふう、ちょっと冷や冷やしました」
でもこれものすごく平和ですね、と喧噪慣れしちゃっているせんせいが言う。だよね、とわたしも答える。さてうまく撮ってくれたあの一枚目だ。写真立てとかは買いにいけないけど、せっかくだからアマゾンででもぽちっとしてしまおうかな。もちろん最近好きになってるあの子役の本を買うついでだけれど。

 「姉ちゃん悪い顔してる」
交くんに言われて、うるさいと一言退けた。そうしたらまといちゃんがもぞもぞと擦りつけるように首を揺らして、こっちの姉ちゃんは子供みたい、とけらけら笑われている。一緒になって微笑みながら、そういえば夕食の準備がぜんぜんできていないとか、このか弱さとあたたかさを手放すのは少し惜しいとか、ふわふわ考えて少し苦笑になる。空回りでシリアスに泣いちゃう彼女はこんなのんきな暖かさに気づいていないのだろうか。そんな風に泣かせる張本人は誰のことも愛さずに誰のこともひっそり思っている。けど少し投げている。ひどいよね、と呼びかけたい相手はまだ寝ていた。

 「せんせい、起きたとき慌てふためかせたいからもう少しそばに寄ってね」
 「あっさりと結構なことを企みますよね、あなたも」
でもせんせいも悪い顔しているじゃない、いえいえそんな、と目線をかわして適度な距離に胡座をかくのを見つめる。交くんはテレビの前に行って押さえた音量にして電源をつける。本当ここにいるのって、一足飛ばしによくわからなくなった四人ね。悲劇なんて入るすきまないんだよ、とうそぶいてみる。頬に涙のあとのあるかわいい寝顔は、見つかることなくプリントできますようにと思いながら静かにお目覚めを待つことにした。


(だからね、寂しいことはないの)

- end -

2011-2


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