林檎



ついさっき、林檎を剥けるようになった。何回かやってこつを掴んだからか、紅色のラインは途切れずにするする繋がって落ちる。だから俺は無心に林檎を剥いている。細く長く、細く長く。久藤の家の台所は蛍光灯が少し暗い、銀色に光る果物ナイフの、つるりと明るい色をした手になじむ柄をかたく握る。
久藤の無言も細く長く続いている。黙って喉を閉じて何かを吐き出したくて仕方がない気配で俯いて震えている。俺はそれを見ないよう聞かないよう、微かな摩擦音で林檎を剥く。見たくない聞きたくないとは、言えないで伝えてしまう。それなのに隣にいる。最低だと思う。


低く低く抑えた声がとめどなく聞こえる、久藤の吐露がはじまった。背の高い十七歳の少年の切実な世迷い言、涙もなく泣くような血のにじむ怒濤の本音を、なのに聞いていたか聞いていないかよくわからなくなった。ただただ一緒に哭いているように、喉の奥だけが軋む。林檎は赤い。林檎はほんとうは白い。剥いた痕は酸化してくすんできた。どんどん林檎じゃなくなっていく。つくづく悲しい声に晒されて俺は止まってしまいかねない、一緒に引きずられて途方に暮れてしぬ。刃をすべらせて、ぷつりと林檎は切れてしまった。けれどやめてくれともそんな姿を見せてくれるなとも、言えないし言ってはいけないと思った。すうすうと肋が痛む。灰色の震える刃が、浅く浅く林檎の膚をえぐる。傷から薄っすら蜜が流れた。

本当は、こいつはそんなに神様みたいな人間じゃないってわかっている。すごく賢くて洒脱に立ってるただの少年だ。超越して達観して俯瞰で不偏の永遠な冷たさなんて存在し得ない、その蜃気楼をひらくと揺れも温度も迷いも傲慢も虚勢も持った頼りない弱さがあるということは。ただ今ここにいる十七歳のこいつがその瞼を閉じて、無性に美しく悟ったような風情で笑うことまでできるだけだ。それを思うと俺の心はいつでも割かれたように痛くなって、苦虫とめまいの間に眉を歪める。だって俺は、俺の久藤は完璧で軽妙で惑わず騒がない酷薄なやさしい道標だと信じて救われてしまう弱者の方にいる。一方的に頼っている。どれほど近しくなったって、ふとそう思っている。そんな都合のいい相手、いるわけないのに。
そうしてまだこの期に及んで、己を素通しで虚像を賛美され積もり募る久藤の痛みより、久藤が虚像を破棄することで喪われる俺の情動のことをどこかで危惧している。幻滅が怖い。俺がこいつに抱くものを否定される、違う俺が見ていたこいつとこいつへの気持ち全て自分で否定することが怖い。待ってくれじゃあ俺は、お前に何を思えばいい?芯を喪失してそれから何を抱けばいいんだ。「幻滅してしまった」俺が。手前勝手な焦燥が、臆病に耳をふさいでしまう。友が傍らでするべきことは、強者に仕立てあげて挑みかかることじゃないのに。そう信じ込ませてほしいなんて、泣きつくことじゃないのに。


 「ごめん」
重たい滝のような久藤の独白が止んで途端にしんと静かになって、それを声じゃなく音としてしか認識したくなかったような狡い俺が耐えきれず一つ呟く。ごめんな受け容れなくて。ごめんな受け止めなくて。
こんな人間にそんな真剣で悲痛な言葉を聞かせてくれるべきじゃなかったんだ。ただの憧憬で、そいつらと一緒なんだよ。それなのにお前に近寄って友人顔で隣に座っているべきじゃなかった。本当に、ごめん。耳の奥がぎしりと痛い。この痛みすらも許されない気がするくせに。
 「何で謝るの」
久藤がひさびさに苦笑の色を含ませて言った。俺はひさびさに久藤の声を言葉としてちゃんと聞いた。たまらず俺の涙腺はずきりと開く。涙で僅かに浸る。目線を落とすと、いつのまにかまな板に転がしていたナイフと、未だに掌で包んでいた林檎がどちらもぼやける。果実はつめたくて湿っていてぼろぼろで、表面は乾いて嫌な色に萎れていた。甘酸い香りがもうしない。まな板に細長い紅色がぐるりとらせんを描く。

 「だって、お前は僕のことちゃんと見ててくれたでしょう」

耳を疑った。どちらかがいかれているんだろうと思った。どうしてそんなことが言えたんだ、と虚をつかれたまま久藤を見つめる。そんな、真っ赤な嘘。隠し切れない欺瞞ひとつお前が見抜いていないわけない、俺はもう自棄で薄皮を更に剥いでみていただろうが。久藤の疲れきった双眸がやつれてほほえんでいる。重みをゆだねられているように視線が刺さる。信奉を映す鏡のようで、俺は唐突に理解する。久藤も俺を唯一の理解者であると信じ込みたくているのだ。たとえ「ふり」でもそれを知っていて上辺に己を騙す手段でも、痛みをまぎらわせる処方箋として、いる。
むしょうに憐憫にかられて心底悲しみがこみ上げて、持ち重りしていた林檎をごろりと取り落とす。林檎はさほど転がっていくこともなく、テーブルの上のすぐ目の前でつんのめりながら止まる。なんだ、なんだよ、お前もばかなんだな。どうしようもなく、弱いんだな。

崩れるような足で椅子を立って、テーブルを伝うようにして久藤に歩み寄る。林檎の蜜でうっすらとべたつく指を久藤の頬に添えて、その引きずり落としてくるような瞳をじっと覗く。長い睫にふちどられた色素の薄い垂れ目の、真っ直ぐ射抜くような頑是なくさまようような目線とじっと合わせる。

久藤は黙って俺を待ってる。抱いていた幻が少しだけ変容してまた俺を包んだ。今度は恋に似ている。二人手をつないで冬を流れるような恋に。今こいつに、嘘だよ、なんて言われたら今度こそ本当に死ぬんだろうな、とだけ思いながら、目を瞑って額と額をゆっくりと確かにぶつかるように当てた。


(ディストピアだったよ)

- end -

2011-03


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