ラッピングサマー



そよと爽やかな風が僕らを吹き抜ける。山間の地の高原はまるで別世界みたいな冷ややかさのまま8月だった。青々と茂る木々が眼下に見えるウッドデッキのテーブルで、東京の蒸し暑さも照り返しも嘘だったみたいに座っている。これじゃもうひと月は下界に戻れないんじゃないか、なんてことを思いながらまあそれでもいいかと氷の浮いたお茶を傾ける。香りのいい鋭敏な苦みが舌から頭に駆け抜けても笑っていられるくらい、実際今はすごく安らいでいた。汗をかいたグラスの冷たさが親指を伝って、この静けさと涼しさはそれは大金を積む価値もあるんだろうなと急に合点がいった。なんでこんな辺鄙なところに、とそれこそ最初は思ったものだけど。

 

 「今って夏なんだよな、真っ盛りだよな」
長テーブルの斜向いに座る木野が急に呟いた。確認するような言葉は単に自分の現状を改めてにやつきたいだけのことだからこちらの返事すらいらない。それでも天板の上には何冊もノートや問題集が広げられているのだから、いい加減現実を思い直せよとひっそり思う。まあでもこの頭のはかどりそうな環境でまだ8月の初めなわけだから、早いこと終わらせられる見込みは例年の何倍にもなるだろう。僕はこっちにくる前にさっさと済ませたけどね。おかげで荷物は至極軽い、リュックに忍ばせた本何冊かを差し引けば。しかし人に与える印象よりはまだ生真面目な木野は、朝からせっせとその荷物に勤しんでいる。彼の友人Bだったらとうに放棄して駆け回っているだろうから、まあまじめ。全部消化して宅配で送ってやる、と意気込んでいるけどもそれは運び賃の無駄ってものではないだろうか。いや、持って帰って鞄の容量を減らしたくない気持ちはわかるんだけど。
昼から何して遊ぶ?と木野がシャーペンを滑らせながら目を輝かせるので、もうここにきて一週間にもなるのにまだ引っ張り回されるのか、と僕は苦笑した。嬉しさは隠せたはずだ。

 


僕らは担任教諭から、実家の持ち物のひとつだけれど地の利が悪いから家の人間が誰も使わなくて余しているんですが人が入らないとどんどん古びますから、という別荘に住まうよう頼まれてここを訪れた。というか木野が諸手をあげて立候補したのにつきあわされた、というところだ。
いわく普段なら女子生徒たちに持っていく話なのだけど、さすがに親の持ち物である場所でいかにもあの子たちらしい面倒を起こされたら不味いとの判断らしい。君たちだったらまあそれほど問題もなく使ってくれるだろうと思いまして、というのもあんまり褒め言葉ではない。たぶん兄妹たちのいたずらした痕跡も残っていないまだましな状態の別荘だ、と担任は無責任に言った。残ってるようなのはどんな状態なんだと思っていたら木野も同じ疑問をうかべた顔をしていた。
木野は友人たちにも声をかけたけれど芳賀は遠くて娯楽施設もなくテレビゲームも重く信州まで行くのは億劫だというし、青山は家族でどこぞへ行くから行けないと申し訳なさそうに辞退した。そうして奴には一も二もなく誘いたい相手がいるはずだけれどそれは断念したのか玉砕したのか踏ん切りがつかなかったのか、ともかく実際僕たち二人だけでここに来た。

 

あ、ちなみに木野には「そんな山奥の上流階級御用達の町でお前の好きな着飾り方をしていたら、むやみに不審がられて通報されるかもしれないし、虫にくわれるし日差しに参るし、僕は滞在中むやみに眼精疲労したくないから駅前で冷たい目をしてお前を迎えるし、とにかくいいことなんて小指の先ほどもあるわけがないから抑えておきなよ」と噛んで含めるように念を押してあったので、奴は悪魔からお前を助けてやる代わりにお前の子供をさらっていくぞと言い渡されたかのような悲しい顔をしたが、ひとまずまだ常人寄りといえなくもない格好をして、要は妙なプリント程度のTシャツと少しばかり変なだけの柄のズボンでやってきたので僕はほっとした。荷物がやたらとかさばるからか着替えもそこまでとんちきじゃない。ついで出先であんまり楽しいのでぎらぎらぴらぴら着れない不満も忘れたらしい、よかったことだ。

 


さておき。電車をいくつも乗り継いでバスを長いこと待ちつつ、某巨匠アニメ映画のバス停のような停留所だと木野はおもしろがって、乗って降りてからてくてく歩いてちょっとさまよって確かにようやく辿り着いたという感があり、そうとわかりきっている当の持ち主や身内はあまり行く気にならないだろうなあとわかった。東京からはもちろん、地図を見るとここからかなり離れた本家の場所からもなかなか遠いはずだ。あちら方面との方がバスの本数はいくらかあるかもしれないけど。

木野は列車の道中から、はしゃいだり眠ったり僕にしゃべりかけたりトランプだのウノだの二人じゃ成り立たない遊びばかり持ち出したりとなかなか楽しそうだった。それから乗り合わせた客、殆ど年配の人か子供連れの家族といったところに声をかけられては何か貰ったり話をはずませたり、小さな子の暇をまぎらわせる相手になることが多かった。僕もそれに付き合ったので、長い道のりだったのに本はあんまり読めなかった。さすがに一日に三本もこないそれも旧型バスなんて段になると、すっかり僕らしかいないような車内になったけどぐわんぐわん揺れるから活字は追えない。

ともかくもその別宅の前に立って、長年放っぽらかされている別荘とあって少し覚悟していたのが、管理業者がきちんと仕事をしてきれいなものだったからちょっと拍子抜けしてしまった。蜘蛛の巣張ってんのかと思ってたと奴が言って、もう朽ち果ててるんじゃないかと思ってたと僕が言って、だってあの先生の持ちかける話だもんなと声を揃えて笑った。じゃ、なんでのこのこ来たのかって、そんなことはどうだっていいと思うんです実際。

 


そうして次の日から僕は木野にいろんなところへ連れていかれた。どうやら賢明にも事前に調べてあったらしくこの周りにある限りの遊べそうなところが列挙されていて、その分の時間で宿題片しておけよと僕は照れ隠しに言った。森を歩いて小さな生き物を探したり木々を見上げて深呼吸するのは気に入ったようで早朝の散歩が奴の日課になったし(僕も楽しかったけど朝は起きられなかった)、真昼に冷たい清流を裾をまくった裸足で駆け回るのは気持ちがよくて水着もってくるべきだったって二人で言って意外だと笑うから水をかけてやった。次の日はバスでがたごと最寄りの町へ降りてみて、僕は小さな古本屋で埃をまとった絶版本を見つけて木野はどこかよその民芸調の手ぬぐいでなかなか奇天烈なやつを満足そうに買っていた。辺りで唯一くらいの観光スポットと書かれていたらしい箱もののテーマパークはとっくに廃業していて、無駄に豪勢で空っぽな廃墟を外からこわごわ一周して帰った。探検みたいに道を下っていって見つけた茶店で一服した日もあった。糸色家の厚意で配達される食材に、食事の描写が美味しそうだった物語を持ち寄っては広い台所で好きなメニューをつくりまくった。空いた時間は二人で板張りの床に寝転んで、持参の本と書棚に積んであった本を読みふけった。ちょっと古いけど大きな型のテレビで並べてあったビデオの映画も見た。なんかもう自分でもどうかと思うくらいのどかな生活だと思う。そして実はとても、気を抜くと割り当てた部屋のベッドの上で目頭が痺れるくらいに、理想の暮らしをしていた。

 


 「星を見るの?」
適当な時間になったのでトマトとハムのバゲットサンドと作り置きのスープ程度の簡単な昼食を作って二人で食べていたら、唐突な木野の提案に思わずおうむ返しをした。木野は目を輝かせて頷く。このリビングの僕の肩越しに既に夜空があるかのような目をする。星ぐらいこのところ毎晩ふっと眺めている気がするし、目立った天文現象があるとも聞かないけどなあと思いながらスープを口に運ぶと、木野は明るく自信満々の顔をして続けた。
 「今夜の星に拝むとこの夏一番叶いやすいんだって!」
思わず手刀を落とした。夢見がち乙女か。むしろ恋に恋する女児向けおまじないコーナーか。それは単なる編集部の騙す小手先なファンタジーだと、他の分野であれば素っ気なく言えるのにねお前。恋だと駄目だね。しかし僕の脆弱な手刀では木野の頭部にダメージを与えるよりこっちが手を痛めるので、ポーズ程度のやんわりしたものにとどまったのがしゃくではある。
 「なにすんだ」
 「恋を叶えたいんだったらもうちょっとリアリスティックな方法にしてください」
構わずパンをむしゃむしゃ食べる。ようやく恥ずかしいのか木野はちょっと赤面してきいきい言う。構わずスープをがつがつ飲む。あ、もう一品何か欲しいかな、何を作ろう。プレーンオムレツ程度でいいか。そう尋ねたら、あの濃いめのチーズ入れて、あとウインナ、とか文句のしっぽに言い足すので本当に年少者じみた可愛げがなぜかあるなと思う。

 「単に、きれいって言うのもあるし」
台所に立って3分でオムレツを手に戻ってくると、まだ話が続いていたようだった。ああ、まあね、とあいまいにつなげる。なんか、来てからちょっと曇ってるとか雨とか、何かしてるか寝ちゃって空まで見ないとか、多いじゃん、せっかくきれーな所なんだから、もうちょいちゃんと、じっくり見てみたい。熱々のオムレツを皿にとってうまそうに味わい、あとはもう夢中でがっつきながら言う。ちょっと甘かったかな、と思いながら僕もひとくち食べる。星ねえ、と間延びして返すと、夜風でさ、天の川みたいで、遠くて近くて、きっと楽しい、と単発的に返る。

 「まあいいけど、探してもたぶん双眼鏡ぐらいしかないよ」
 「肉眼で見んのがいんじゃん、肉眼で見えんだから」
 「それもそうか、花火は?」
 「花火 …すっごい心ひかれる、けど、今日はなし」
 「星集中?」
 「星集中」
 「了解」
 「あ、やばい、夜が楽しそうで昼おもいつかない」
 「なにそれ、別に星だけでなにもないのに」
 「そこがいいんだろ」
 「まあ否定はしない、じゃあ昼は勉強でもする?」
 「えっっ」
 「めぼしいところ回っちゃったと思うし、今日涼しいし、教えてあげるよ」
 「…俺はお前に勝ちたいんだけど」
 「敵に塩だよ、受けておきなよ」
 「なんっかなあ…いや嬉しいけど」
 「嬉しいんじゃない」
 「腹立つ」
 「ははは」

適当な会話をしながら、そう言う僕もあと数時間後がなにやら待ち遠しいことにとっくに気がついていた。そうだな、夜空で、満天の星で、もう見上げる一面の星で、星すぎて、お前が笑ってたら、楽しいね。きっと、僕の目をぬすんで本当にお星様にお祈りしようとして、目敏く冷静に見てるから、照れて怒るだろう。意地悪くからかってやって、それに反論してたら、おもしろくてどうでもよくなって、ひらきなおって大声で叫んで、また二人でげらげら笑うだろうか。そんな光景をおもいうかべたら、まだ見てないのに、もう見たような気持ちになった。そうこうする間に、木野は昼食を平らげていて、僕の皿にはまだ少しある。木野はいやがったわりに待ってる顔をする。じゃ、食べ終わったら教科書を広げて、ううっと唸る木野をいびって、丁寧に教えてやろう。夕方近くになったら、ご褒美がわりにさっき凍らせておいた果物を食べさせよう。こいつそういうの好きだから。休み明けのテスト、点数伸びるか楽しみだな、けどまだ遠く感じる言葉だと思う。

 


じゃあ明日は何をしよう。何もしないでいてもむしょうに楽しいけど。さわやかな日々だし、甘やかな心だ。浮かれてるんだね。飛べるくらい。つくづくこいつの浮き足を笑ってられない立場なんだけどそんなことはもちろん内緒にする。飽きるまでいていいなんて言われていたら、共犯して登校しなかったかもしれないな。ああ、よろこびが、あふれかえっていて、少しこわい。それが幸せなんだろうとだけは、僕はしんでも教えない。ふたりの夏休みは、もっとずっと永遠につづくような、2年生の夏休みだった。

 




共にうつくしい夏を暮らせる

- end -

2012-07


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