(ストロー/久藤→木野)

  
微かな弾ける音を立てて泡が立上るグラスの、薄翠色の内で寄る辺ない氷がからんと回る。かぶせるように丸く落とされたバニラアイスが、少しずつグラスの透明度を濁らせていく。お前の心臓はきっと青いんだ、と戯れにそれらをストローでかき回しながら木野が言った。僕の心臓こそかき混ぜられたような気分だった。

 「八つ当たりするのはやめてくれないかな、本当」
 「正当な言い分だろ、青色一号が流れてるんだお前の体には」
 「ブルーブラッドって言い回し知ってる?」
 「…つくづく嫌なやつだよな、知ってた」

どっちをだろうな、と思いながら名前ばかりの味気ない珈琲を啜る。どっちがだろうね、とは、惨めたらしいから考えてやらない。木野の手元のグラスはそろそろ白色が勝って、甘ったるそうなそれを淡々と飲めるのが不思議な感じがしていた。時季だってまだ冷えるというのに、よく分からない奴だ。

 「勝負しろよ」
 「やだよ」
 「なんで」
 「理由がないから」
 「あるよ」
 「ないよ、もう勝とうって気ないでしょ僕に」
 「…あるって」
 「嘘つき。挑むべき相手が他にいるだろ」

突き離すと押し黙った木野の溶けきったフロートをいくじなしの奴に重ねる。心底から意地を引きずりだしてきたらそんなことないくせにって知ってる。貰って食べた桜桃の軸と種がソーサーに残っている。珈琲が変に苦い。
こいつが突っ掛かってきて引き下がってきて後ろをついて来たのがいつからかを考える。あしらうのが楽しくなって下手になって絆されたのがいつだったか諦める。距離感が安堵に落ち着いたのと僕がろくでもなくなったのと奴が恋をしたのと、時系列は攪拌して意味を成さない。ただ、あまりにも馬鹿げてしまっていた僕が虚勢で立ってる。

 「どうすりゃいんだよ」
 「知らない、知ってるでしょ」
 「怖いんだ、すごい」
 「今更言うことじゃないし」
 「…恋って邪魔できないだろ」
 「それは知ってる」

呷ったカップの底に沈着した色を瞑る。こんなしけた喫茶店もう二度と来るべきじゃないし、また来てしまう気もする。木野は飲みこみにくいみたいにストローを啜る。陰鬱に夢をみている。やさしくない、とそれこそ今更なことを言った。できない事情を飲み込むまでもなかった。

 「だからお前なんか好きなんだよ、俺」

冷えただろう声帯で木野が呟く。こっちがだよ、って呪詛が、喉でつっかえてそこが痛かった。

 


◇◇◇

 


(夢/久藤←木野)

  
夢を見た。俺はよくあいつの指に見惚れていた。奴も黙って俺が撫でるままにしていた。するといつだか、じゃあひとつあげるよと言って笑った。そうしたら瞬きもしないのに奴はいなくなって、ぽつんと立つ俺の手は箱をひとつ握っている。夕暮れの藍色が一面支配する原っぱで紺色につるつる塗られた細い箱を開けた。ビロード敷きのなかに真っ白な指のかたちをしたものが入っていて、手に取るとチョークの手触りで、かじるとシガレット菓子のようにすうすうと甘い。俺は泣きもせずに照りも暮れもない空を黙って見て、こんなものいらなかったのにと思って食べた。

 


◇◇◇

 


(A・HAPPY・NEW・YEAR/久藤と木野)
  

今年も終わるね。そう言ってとりとめもない電話がかかってきたのが夜の10時ごろ。家は別に蕎麦でもない普通の夕食だけどなと言うと、そんなものだよねと言う笑い声が電波にかすれて届いた。風呂上がりに自室でくつろぐ俺と、久藤も似たようなものだろう、クラシックらしき演奏がかすかに背後に聞こえる。俺の方は部屋が底冷えするから早々に布団に潜って、読みかけをさっき開いたところだった。文章が合わないのか内容がそそらないか、あんまりページは進んでいない。そんなことを会話に挟むと、じゃあこれはどうだあれはよかったと文学少年っぽい話が弾む。奴のオススメ本に絶対食いついてしまうのが悔しくて、ジャンキーめと言って笑ってやると向こうも喉鳴らしながら笑った。

久藤とは冬休みに入ってもちょくちょく会うし、せいぜい三日ほど顔を見てないくらいだ。けど何だかこうして電話越しで喋っているとすごく近しくて遠い気分になる。これが携帯じゃなくて受話器だったらきっと無意味にくるくるのコードを手繰り寄せてる。糸電話だったら意味がある行為になるんだけどな、とか異様に乙女みたく絵空事なことを考えた。友達相手にどれだけ恋しいんだよ、と仰向けの天井を眺めて自分に呆れる。でも久藤の展開する冷淡な書評につられて、あいたいな、と俺がついぽろっと言ってしまうと、僕中毒め、と嘲る手前に久藤は微笑った。その声にうっかりキュンとしかけた耳を苦々しく思ってから、髪が乾いたか枕との間に指を差し入れて確かめる。半乾きだったから身を起こしてタオルでがしがし拭いたら、そのノイズを怪訝に思ったか久藤が聞いた。

 「わりぃ、髪拭いてた」
 「ああ、乾かないでしょその長さじゃ」
 「お前もあんまり変わんねえだろ、あっあれ読んだ?学校の、怖そうな話の」
 「読んだよ、そこそこよかった」
 「じゃあ借りる、お前のそこそこってレベル高いし」
 「そう、って、ドライヤー始めた?ごおって」
 「乾かねえんだって、じゃあ電話ちょっと離すわ」
 「…そんな急いで乾かす必要ある」
 「もしもし、何か言った?」
 「何も。乾いた?」
 「乾いた乾いた」
 「何だっけ、そうだ貸せるけど、…今度は何、がさごそと」
 「着替え」
 「…あったかい飲み物用意しとく?」
 「コーヒーで」

了解、と電話を切られてたまらなく笑う。時計を見ると着いた頃には年が明けそうだ。となるとおめでとうを最初に言うべく、一番分厚いコートを羽織った。

 


◇◇◇

 


(うなじ/久藤→木野)

  
呼吸をするたびに肺いっぱい奴の香に満ちる。あたたかくて切なくて、洗剤と太陽が混ざっている。少し本の甘さに似ている。背中側から肩口に伏せるように頭を預けたまま、回した腕の手さぐりで奴の読む文庫を隠してやると勢いあまって頁の軽くひしゃげる感触がした。こら、といつになく穏やかな叱責で僕は所在ない子どものように指をひっこめる。立場が逆転しているような、元からこうしているような気分。おずおずと肩に目を伏せているまま奴の左手首を触れ当てて、ぎゅっとそっちだけ握った。骨のかたい触感と緩やかなあたたかさ。首元に頬をすり寄せて、膝立ちの体で更にしなだれかかる。奴が本を床に置く気配に身がすくんで、肩をやわく掴んでいた方の手を首に巻きつけた。何にも言われないからずっと不安になる。わなわなと欲求じゃなくて感傷に近いものが募る。しばしば耳をくすぐる髪のかたさと冷たさが僕のと異質でたかぶる。一定の間隔で呼吸をくりかえしていた。つとめてゆっくりするようにしている。

一旦顔を離して首を伸ばすと見える間近なうなじは男のくせにやけにきれいな襟足で、ほどよく均質な首に少し猫っ毛がかたそうな背骨の影の二、三番めまでかかる。やけにぱっくり襟首のあいた服だから、背中まですかすか見えた。色柄素材はもう気にとめないようにしている。ただ覗き込める背骨のラインが裏地の派手な模様の影に浮くさまが目をちかちかさせた。離した手をずぼりとつっこむとこっちに引っ張られて首が締まったのかぐえと飛び上がる。手の甲でなでた背中はなめらかでごつごつしてすごくあたたかい。げほ、と咳をしながら襟元を引っ張るのでやっとで手を引き抜くと、ようやくこちらをふりむいた木野が喉をなでながらあきれた声で言った。

 「お前さあ、その傍若無人ぶり余所では見せないくせに俺にだけ理不尽だよな」
 「ていうかいっそスキンシップ過剰ってかガキの横暴ってかとにかくびっくりだ」
 「そのくせ学校じゃ優等生で俺のがうざい扱いだし、またいけしゃあしゃあとうざいとか言うし、本当もうむかつくわ」
 「けどちょっかいかけられてて嬉しい俺が更にむかつくわ、あーもう」

つらつらと述べてから僕におもむろに向き直って、お返しだと言って抱きかかろうとしてきたので照れ隠しに押し戻す。無言でやるなと抗議されたが人肌が実体がお前が恋しくて無口になっちゃうものはしょうがないじゃないとも弁明できない。寂しさから見つめると木野は渋々折れて委ねあう僕らになった。

 

 

◇◇◇

 


(こたえて/久藤→木野)

  
クドー。クドー。奴の声、たとえば冬の夜道でも爪先にあたたかく標を灯すようなあの声、あれで呼ばれると僕は世界でただ一人のものであるという気が頭の芯から染み出すのだ。それは確かに、ただありふれた苗字を全く親しいだけの友人に呼ばれたにすぎないのに。こちらに呼びかけて手を振る口端にのった笑顔、僕は奴のまわりを引力に辿ってまわるような錯覚でゆっくり歩いていく。クドー!、バズーカから飛んできた縫いぐるみを受け止めたみたいなやわらかな衝撃で、僕はゆっくりと喜びにつかまる。

くどー。くどー。すこしだけ弱った体の声が耳に飛び込む。試験ががたがたに悪かったとか、昼食代をうっかり忘れたとか。それから、好きな女の子がために泣きかけているとき。お前は弱ると僕を呼ぶねってあきれたのじゃなくて喜んだんだと誰も気付いてくれないでいい。くどう。どうしよう。俺は、俺は。おだやかに相槌を打ちながら僕は目をすがめる。救難信号にたすけての言葉はない。ただひとりのあの子に向かっていくただひとりのこいつに僕は何もできずにいつかただひとりじゃなくなる。くどう。僕は帆を押す風になりたくてひたすら諭すことを空回りにおぼえた。この声がしきりに僕を呼ぶもうしばらくに、笑って呼んでくれる方が多いことだけ静かに期待していた。

 


◇◇◇

 


(しゃくしゃく/久藤→木野)
  

僕はこいつにいつも余裕だとばかり思われている。けど本当は「全然なのに」とだけ言ったら木野は不得要領な顔で「は?」と言った。顔をそらしてむっつり黙ってみたけど、僕はむっすり黙るのも苦手だから、ただ言葉を濁しただけみたいになってしまった。

木野はまた「何が」と言って、俺?今日、ジャケット?とか呟きながら自分の服を引っ張ったり裏返したり触り回している。わざわざ検分しなくても全然異様だ、と言うのはおさえた。青緑にピンクの短いフェイクファー他、よくわからないもの着用で、玄関には蛇模様のヒールブーツが寝ている。襟巻きとかげみたいな形で首のうしろに結わえつける布にちゃらちゃら散りばめたちゃちな飾りたちが、木野がきょろきょろ頭を動かすたびに揺れる。クリスマスリースかよ、ってぼそっと言ったら、あっわかった?ってかなり嬉しそうに顔を上げたのがすごい癪にさわって、とりあえず木野がたった今読みかけている冒険長編の一番いいところを教えるべく「これねえ」と指し示しながらずいとにじり寄った。
すると木野はぎゃあと喚いて耳をふさぐ防御姿勢を取ったものだから、その片手を取ってさらに耳元に寄って言いかけると、もう片手でつっぱねながら嫌だやめろと情けなく首を振る。なんだかその体勢がものすごく面白くなくて妙にむかついて、はいはい悪かったよとあっさりほどくと不思議そうな顔をされた。ああそうだ本当に、こういうところだ。自分で言うのもなんだけど確かに前まではわりと余裕ある人間だったよ。負けん気なかったし、色々なかったし、ただ涼しい顔してたし。お前のせいだと言えるほど開き直ってはない。

傷ついたような感じでしばらく明後日を向いて黙っていたら、木野は「どうしたよ」とひょろりと言った。なんでもないよ、と返した声がすごくふてくされていて驚く。木野はくっくっ笑いながら「あれ貸しといて」と読みかけた本を示すことを言って、立てた片膝に顎をつけた僕の背中にこめかみ辺りをぽすんと預けた。それだけで浮き上がったあばらの奥にあきれつつこわごわ振り向くと、左肩越しにうずくまる木野のつむじがひとつみえた。「お前、人が読んでたらつまんながって邪魔して勝手だもんなあ」って見当外れでそうでもないことを笑う。肩甲骨に反響して耳にとどく声が他の誰の声より快かった。このまま余裕のあるなしが完全に逆転したら、またあっちから逆流してくれないかな。腹いせにすごく悲しい話をしたら泣かれてもっと弱った。

 


◇◇◇

 


(薬指/未来パロ/久藤→木野加賀)

  
開いたメニューを支えた左手の第四指にこじんまりと光る銀色をわざとらしく見つめてやったら、気付いた持ち主は照れたようにほほえんだ。本人の趣味からするとありえないくらい簡素な指輪には、やっぱりそれなりの給料三か月分というものが入っているのだろうかと思った。でも石がついてるようには見えないけど、と目をこらしながら聞くと、加賀はしっかりしてるから指輪も式もシンプルなものでいいですって言われた、とのろける苦笑で奴はグラスの水をひとくち飲んだ。まあまだ甲斐性ないもんねお前、と僕が静かに揶揄っても、複雑だけど確かにそれはそうだからいいんだよ、と木野は肩をすくめた。だから俺いつかぜったい加賀に好きな指輪買ってやる。そう言いながらメニューをめくる指に、加賀さんは別にそういうのじゃなくてもいいんじゃないとは言わないでおく。そこまでなくてもいいとお互い承知の上でそれでも尽くしあう人間たちに、お熱いね以外の言葉はいらない。

僕はメニューを閉じたままテーブルに組んだ腕をついて料理を迷う木野を見続ける。相変わらず食い意地。そのチカチカと輝く目は何年も前と同じ色で、前より少ししっかりした芯になってる。おとなになってゆくなあと僕は思う。言うまでも僕らは同い年で、成人済みでもあるのだけど。けど僕は未だにこどもで往生際も悪いから、隙あらばぐずぐずとその銀の指輪にかみついて奪い去る妄想をかざしてしまいかけた。右手でつかむんじゃないのはできてしまうから。祝福したいよ、あの儚げにうつくしい女の子のことも。

ふと木野の目が不安そうな色にくすんで、こっそりと僕にささやく。ここ全部高いんだけど。僕は半ば予想通りの反応にほほえみながら自尊心を傷つけない答えを掬う。今日だけはおごってあげる、お祝いだから。木野は目をきょとんとさせて、こんなに高い店じゃなくてもいいのにと言う。僕はくすくす笑って、気鋭作家をなめないとあえておどけた。僕のお祝いがあったらおごって、とも続ける。支払いのとき加賀さんにお土産も買うからねと苦笑する木野に言うと、それこそ加賀も合う日にすればよかったなと木野はグラスをかろかろ揺らす。それを遮るように給仕を呼ぶための右手を挙げる。木野は慌ててまたメニューを覗いて最終決定をするから、そのつむじに言わないまでも思った。ごめんね実は今日限りお前への□□とお別れしたかったんだけどできない。それを振り切るように、ビーフシチューのがおいしいよと僕は笑った。

 


◇◇◇

 


(安心盤/久藤と奈美ちゃん)
  

一番ふつうだということは一番正常だということだ。だから彼女は、このなぜか風変わりな人物ばかりが集ってしまった狭いハコの防波堤にもなる。たべものと流行のものと話題の人物ばかりのお喋りを、疎いながらも使える林檎印のパソコンをかたかたやりながら続けてくれる人はここではむしろ稀有だ、彼女らの多くは自分の好きな分野にばかり迂回して各々もどってこなくなるから。他愛なさこの上なく一方的に話されて、やんわりあきれながら何となく平常を取り戻す人。彼女に持論をつかつかまくしたてて、返る答えがあまりに平和的一般論で拍子ぬけで帰る人。そんな光景を見るたび、この教室で一番語り手と聞き手に適任なのは実は僕らじゃなく彼女かもしれないと思う。気負わずてらわず僕みたいにまだるっこしいこともせず、自覚すらなく熱を抜けさせる。さて、そうして僕も今日はふらふらと彼女の元へ向かうことにした。彼女は自席でプリンをたべながら画面に見入っていて、僕が近付くと珍しいねと言って普通に笑った。曖昧に返事をして画面を窺うと、いま流行りなんだろうなって歌手が形ばかり吠えて歌った。


 「人をころしそうに思う」

その歌にのせてもなく単刀直入に言った。回りくどく察させずふるまって、それとない話から我に返る過程すら面倒に思ったから。日塔さんはプラのスプーンを咥えたままキョトンとした。その反応で少し視界がやわらぐ。僕は疲れに硬直した頬でほほえむ。ひとごろしの微笑じゃありませんように。ころしたいほど邪魔に思う、初めてくらいに憎悪している、うっかり何も考えずにやっちゃわないか不安。独り言のようにざんげのようにぽつぽつと言う。日塔さんはプリンをパソコンの横に置き、機械をぱたんと閉じ、少しの焦りと戸惑いと冗談でこの場をごまかすべきか迷うのとがひきつった顔でそれでもまじめに聞いてくれた。善良な人だなと今度こそ静かに笑う。昼休みの教室は適度に人が出払ってすぐ周りに誰もいない。


 「それは、えっと好きだから?嫌いだから?」
 「僕の好きな人が好きな人が好きだから」
 「…む、難しいな」
悩みが深まった様子で日塔さんは言う。詮索してこないのが楽で意外で快い。腕組みして唸った彼女はぱっと顔をあげ人差し指をぴっと立てた。

 「じゃあ、でも久藤くん変じゃないよ。愛なの。身を引いてそこまで好きな子応援できるってすごいと思う」


普通だ。すごく。僕は吹き出し、日塔さんは怒り、僕は軽くなった肩で安心して席に戻った。

 


◇◇◇

 


(声色/久藤→木野)

  
お前って詩集も読むんだと俺が言ったら、僕は本の形をしてればだいたい何だって読むよ、と久藤がちろりと目線を寄越してまた伏せながら答えた。その右手は繊細そうな装丁の薄ぺらい本を軽く支えて、全体的に白色な表紙には流れるような英文がひとつ躍る。詩、しかも英語。俺わりと日本語でもわかんない。ほらと中身を示すように本がすこし傾いたから上からちょっと覗き込んでみたけど、さっぱりわからない文字列がちんぷんかんぷん並んでいるだけに見えた。英字の並びが整然と脈絡なくって雰囲気で、甘ったるそうでもなくて無機質な感じだけど何の話だろう。よくわかんねえって俺が言うと、僕もよくはわからない、と久藤が言う。意外に思えて束の間まばたきをしたら、入っていたから読んでるだけだもの、と淡々と文字を追いながら久藤は続ける。感覚的なのは苦手なんだよ、これだったらまだ数学とか物理とか言われた方がわかる気がする。とのたまうので、いや俺はそれだったらこっちのがわかる気がすると思った。

知ってる人?と訊ねると、知らない人、と返る。おもしろい?と訊いたら、おもしろそうかもしれない、と言う。知れない、に重みがある言い方だ。首をかしげて唸った久藤は、頁を最初に戻すと軽く咳払いして、おもむろに口を開いた。流麗って形容が使える音読だった。明瞭な声で読み上げられた言葉は途端に頭に届く。ぶわって涼しい風が吹き上げたみたいな浮遊感で、説明はできないまま腑に落ちた。それから読み上げ終わった気配でふと我に返る。目線を上げた久藤に、よくわかんないけどわかった!と思った通り告げたら、どういう状態なのと呆れたように笑っている。なんだろう。きれいなのがわかった。寂しいようで平気な人なんじゃないかと思った。でもなんか久藤本人を言ってるみたいになりそうで言わなかった。俺お前が読んだら数学も物理もわかる気がする、とその代わりに言うと、でも把握も説明もできないんでしょうとくすくす棘を刺される。


久藤はまたぱらぱら頁を繰って、適当なところをたわむれに読みだした。俺は黙ってそれを聴いて、目を瞑ってみて水の中みたいなゆらゆらした気分で楽しくなる。久藤の声はよどみなく続く。知らない単語の海を泳ぐ。そうしてどこかの礁に差しかかったところで、俺はあっと言って笑った。今のってたぶんスキってことだ!言いながら目を開けてみると、久藤はなぜか顔を俺の目から遮るように本を広げて、それからもうただ一文も読んではくれなかった。

 


◇◇◇

 


(パンケーキ/可符香→カエレ)

  
シロップびったびたでバターがきらっきらの涙の味がするパンケーキを食べながら、少女は一人うなずきました。おいしくありません。軽やかなきつね色の表面とふんわりとクリーム色した断面の、フォークもナイフもさっくりと通る焼き立てのパンケーキです。挟まって眠ってみたいような三段重ねにメープルどぼどぼで今日は粉の配合もばっちり決まった、自慢のパンケーキです。しかしておいしくないものはおいしくないのです。それはひとくち食べた瞬間に、涙、なんて形容が出てきてしまったときからわかりきっていました。むしろ、陽気にハミングしながらフライパンをあたためていたときにもう決まりきったことでありました。

言っておきますと少女はびた一文たりとも泣いてはいません。それはもう今とも昨夜からとも限らず、かれこれずっと落涙したためしがありません。それより表情筋を笑顔の形に緩める方がよっぽど楽でしかも似合いの人間像でありました。少女はパンケーキをキコキコ切り分けて口に運びながら、愛らしくまたわざとらしく小首をカクリと傾げました。わかりきったことではあるのです。少女は少女だけの小さな家の、気が向いたときくらいしか立たない小さな台所で作った、これしか好んで作ることがないようなお皿を黙々と片付けています。例の暖かな隣人を装う服も着ないで自分のためになにか作るのは久々でした。卓の上には赤と薄黄色に塗り分けられた、しゃれた黒い文字盤の時計がひとつ置いてありますが、それは少女にとって学校に行く時間を示すための装置でしかありません。今も針はむなしく3と4のすきまを指して、それがとっくに寝入るべき真夜中とも閉ざしっぱなしの遮光カーテンに包まれてはよくわかりません。朝はまだ遠く、古い物語の少女のようなベッドは寝具をけとばされたまま、とっくに体温が残されていないのは確かでした。

少女はもくもくと咀嚼しながら、昨晩のメニューを思いだしてみます。何やらのなんとかさんの席での豪勢な何かだったことまでは思い出せました。あれよりはこっちの方がおいしいとぼんやり考えました。最後の一切れで皿を拭うように滑らせながら、ふと少女は昔読んだお話を一つ思い返しました。かれは彼と仲違いをしたから折角の好物がおいしくなかったのです。今わたしがちっともおいしくないのもそういうことなのだろうか。ごくんと飲み込んで蜜をなめた少女は、あのお話の結末を探すためにしばらく宙をみつめていることに決めたのでございました。







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