(深淵/久藤→木野)

  
覗き込むたびに思うことだけど奴の中は案外、深淵なのかもしれない。浅瀬と呼ぶには真っくろすぎて、自分が映ってるかもわからないくらい真っすぐに呑む。世慣れた強かさなんて持ってないのがわかりきってるはずなのに、もしかして演技なのかもしれないなんて思う。奴がその空っぽみたいに緩めた口の端をちょっと下ろして、鳥の雛みたいだった目にふしぎそうな色を落とすだけですぐに融けてしまう疑念だけど。

ああ、だから僕はすぐ彼にお話をしたくなるのだろうか。入力と出力が合っているかが不安で、不安で。自分の読み通りの彼の造型を何回もたしかめるために言葉を紡ぐ。そんなガランドウの物語なんかで案の定泣きはれてしまう彼が不憫で、また安堵した瞬間に僕は不審をおぼえる。おいつかないままに生まれる話は、何冊めかノートを埋めた。

もう出版すればいいんじゃねえのそれ。泣かされた意趣返しみたいに赤くなった瞼のまま、はんと笑って言い捨てる彼の、実は全然ばかにした内容じゃない言葉を聞いて僕はまた不安になった。ねえ君は僕に物語をつくらせるために来たロボットとかじゃないよね、僕の心の空白とやらをなくす実験のための装置なんてものでもないよね。あるいはまさかもっと怖いから言葉で浮かべることもできないものでは、君は本当に君でまちがいないかい。

はずかしすぎて問いかけることすらできないけど本当はむしょうに不安な、近頃そればかりが僕の肺をかきむしってくる、そういったものをまじえてまた話を捏ねた。奴はもう一回ぼろぼろと涙をこぼして、心みだされたそぶりを一度も見せないまま薄く笑う僕のみたされた心に一切気付いていない目をして、無心に僕の言う話の終わりをじっと待っていた。本当は、本当は聞きたいんです君は本当に僕の本当だよねって、なんとも羞ずかしいことだと思うけどそれを。

おしまい、と代わりにゆったり告げると感きわまった顔で木野は涙をぬぐった。あきれた顔で笑ってみせて、聞かなくても十分わかることだなんて思いたくてやまない僕はすがる。足に縋りついて詰問したいくらいの意識はちゃんと無視する。現実の距離は机に対面して座るそれ相応の長さだ。次は怒ったふりをするその顔が、感動したふりだなんて思わないようになれるこのときの中毒患者になっていないふり。満ちたそばからバルブがぬけるこの水槽はきっとまた夜にはからっぽになってしまうから、明日の朝にも似たような話を僕はするんだろう。いや今夜遅くに電話で叩き起こさないとも限らないなと思って、とうとう深刻に病気のようだなってノイローゼの頭によぎったから力なく笑った。


◇◇◇

 


(羽衣/久藤木野)

  
久藤の家に向かう途中、重たそうによどんだ雲はついに決壊してみぞれ混じりの雨粒が頬や額を地べたと平等に打った。大雨ではないが小雨でもない。首元までしたたるその一筋の冷たさに辟易しつつ自転車の籠の、借り物の本が入った鞄をかばいたくて立ち漕ぎの背を丸める。重いペダルで軽い上り坂を進むと、奴の家の広い門が見える頃には俺は前髪も濡れそぼる凍え鼠になった。

玄関に出迎えてくれた久藤は、寒かったね好きなもの飲みなよと言いかけてからびしょぬれの肩に気付いてシャワーを勧めた。自分はしごく暖かそうな肌合いの部屋着で、大量流通の画一的パステルカラーのくせに妙にしっくりなじんだ青色だった。あいつが身を切るような雨を浴びていいわけもなし、俺が出向く約束でまだよかった、と我ながら殊勝なことを考えながらいい湯加減のシャワーに当たって一息つく。浴室もなかなか広くてきちんと掃除してあるのに、どうもこの家は自分の家とくらべて人の気配がしないんだよな、と瞼に水流を感じながら思った。

タオルと着替え置いておくよ、と声をかけられて生返事をして出てきて、体を拭いながら脱衣籠を見ると着てきた服がない。ふと洗濯機に目線を移すと回っている。濡れなかったはずの下着まで回っている。ご家庭で洗っちゃいけないものすら静かに回っていた。あいつが洗濯表示を確認しないわけがないので明確にわざとである。ひきつる頬を押さえつつ着替えはありがたく拝借する。そうして一番下に畳んであった蛍光じみた赤を広げると憤慨する気すらへなへな消えていってしまった。さみしがり屋にやられた。

軽い上着を羽織って、湯に濡れた髪を後ろに流して脱衣所を出る。久藤は居間でソファに座ってテレビの方を向いていて、返しに来いと言った本は鞄の横に紙袋のまま放ってある。テーブルには湯気の立つカップ二つと雨マークの天気予報だろう新聞があったし、生番組のキャスターがやっぱり雨でと言った瞬間チャンネルは変わった。

服、ありがとな。タオルで頭を拭きながらしゃあしゃあと背中に声を投げてやったら、いいえとぎこちなく頷いたのが見えた。俺はとりあえず笑いをこらえてないで下界にとどまりたい美女のごときいいわけを考えないといけない。これで外に出るの嫌だとか騒ぐほど厚かましいと思われてても嫌だ。まわりくどいとか子供っぽいとか、お前は着ない色だろうから貰うよとか言わないデリカシーはあるよ。あんまり好きじゃない簡素で地味な既製品も、肌触りは確かにいい。

 


◇◇◇

 


(独白/久藤→木野)

  
 「ときめかせる」ということを、適温の湯が肺かどこかに汲み上がってきてあふれて息が詰まるのではないかってくらい満ち足りるのと、それを表面上つとめて隠すときの舞い上がる足を抑えるようなざわつきを僕は今までとんと経験してこなかった。そういった温度の眼差しを注がれた覚えは多少あるけど、あちらが表明しなかったから子細も知らない。むしろ僕がよく使われるのはいかにもほのめかすような手管の色目で、相手が何歳でも巧くて狡い以上の意味はそこになかった。初恋があったかも定かじゃないし、たしかなかったような気もするし、忘れたことはなかったのと同じことだと思う。だから少なくとも物心がついてからでは未経験でさっぱり無知の代物を、僕はとても不得手だ。

 

 

◇◇◇

 


(君の話/木野←久藤)
  

 「僕の話をしようか。そうだな、あるとき僕は本を読んだ、とても楽しかった。僕じゃない僕があった。読んだことのない物語をすべて読みたくなった。だけどその内だめになった、どれもこれも似たように見えてきて、誰も読んだことのないまっさらな物語だけを読みたくなってしまった。それで創った。けれどだめだった、それはそうだよね僕は頭の中で一度読んでしまうんだから。だから、ねえ木野、お話してよ」


 「…ひっどいね、それだけ短いのに前提も筋もめちゃくちゃで、キャラクターはみんな同じぺらぺらの紙芝居。台詞回しも下手でぎこちないし、設定も後出しし放題で、伏線になってないし、張ったの回収できてないし。…無理やり全員幸せにしようとしてたし。ていうかすごいえらい人が魔法で解決って、なんだよ。いまどき小学生でもやんないよ…」


 「…ね、木野。少なくとも僕は、こんなむちゃくちゃにやさしい話初めてだったよ」


 「何でだろうね。僕は僕じゃなくて、たしかに君になった気がした」


そんなことを言って奴が笑うので、それがうっかり泣き顔に見えて、俺はそのまま立ち尽くして、俺は、俺は、「また君の話をしてよ」、そんな声にうなずくしかなかった。さっき三分前にお前を笑わせたい気持ちと舌の根だけででっち上げた物語さえ、もうとうに忘れてしまったっていうのに。

 


◇◇◇

 


(こわい/久藤木野)
  

いつもどこでもことごとくいいように転がされているのがつくづく悔しくてたまらず、内心歯がみしながら「こわいもんとかないの?」と聞いてみたのだが、「ないわけないけど、ここでお前に言うと思った?」と返された。さらに悔しさが強まった。「あ、じゃあ、まんじゅうこわい」「ふざけんな」、気後れするような完璧さで脱力してしまうほど食えない男は一回言ってみたかったとくすくすと笑う。邪気もないよに翻弄する、でも別に何されたって許せてしまうから一緒だ。

 「別に今甘い物食べたくないしなあ」
 「買ってこねえよ」
 「ケチ」
 「…なあ、まじで、苦手なもんとかないの、俺には教えてくれないの」
 「言ったでしょう。でも場合による」
 「…いや、別に靴箱に入れたりとかしねえから」
 「どうだか」
 「信じろよ」
 「ええ…」
 「…俺だけお前に届かないみたいで、さびしいから嫌だ」

じ、と眉を寄せて迫るとくどうはやれやれとばかりに肩を開いて、はぐらかすのをやめる合図でわざとらしい笑顔をやめた。その口の端に残る苦笑いみたいなひきつりが、千年生きてる賢者くらいには遠く見えたけど好きだった。


 「そうだなあ。お前が、実は僕にとって都合のいい動きしかしないロボットだったり、そのあっぱらな言動がぜんぶ僕をだましいれる演技だったり、本当は僕のことなんかこれっぽっちも気にとめていなかったりしたら、嫌だよ」

頭の回転がゆるんで意味が掴めない俺に、久藤は駄目押しの一声で「お前がそれそのままの人間じゃなきゃ困るってこと」とつけ加えた。俺は狐につままれたような顔をしていただろう。奴が吹き出して肩を震わせて笑い出したから、お前こそ俺をむちゃくちゃ喜ばしく思わせるべく芝居したんじゃないだろうなと思った。が、その時点でこれじゃ反論になってないなとも考えた。嬉しくてどうするんだ俺。ていうか久藤も何だ。抱きつくぞ。

 「俺だって、お前が今言ったのがホラだったら傷つくし」
 「告白し合ってるみたいで恥ずかしい」
 「おい」

言い出したのはどっちだ。あ、俺だ。だんだん照れてきて黙ったら久藤まで居心地悪そうな顔になってきた。各々目をそらしてちょっと額をおさえる。変な沈黙を止めたのはやっぱり久藤の苦笑する気配だった。

 「ばからしい、何言ってんだろ僕も」
 「おお、…全く心配いらねえし」
 「そこ真面目に言うなよ好きなんかじゃないとか言ってよ」


珍しく赤い久藤に、言うかよざまあみろと俺も笑み果てた。

 


◇◇◇

 

(慕情/久藤→木野→加賀)
  

お前の逃げ場になるのは悪い気がしないよ。いつも強がって余裕ぶって悪態ついてそのくせ本心がありありと見えててむしろ見せてんじゃないかってくらいで、手を伸べる気もなえるほどある種明瞭で元気な君が今にもくずれおちそうな膝で僕のところにきたら、そりゃ、心が浮遊しかけて慌てて引き戻すってものだ。そんな折れかかったたましいのままで縋れる相手は、泣きじゃくりたくてたまらないまま放心で向かいたい人は何人いるのかな。僕がいちばんだったから、僕一人とかでなくてもいいや。

どうしたの、放課後の教室の窓辺にて今気付いて顔を上げたふりで僕は言う。白に近い埃色のカーテンが重たい空気を孕んではためいている。寄り掛かる窓の桟は軋みもしないで角を静かに差す。木野は涙も目の奥にわだかまったまま、茫然に近いような顔で、ふられた、と言った。なくし物をした子供のようだと思った。僕は笑って、何回めだっけと言おうとしたらナを舌にのせる前に木野がくちびるをふるえて噛み締めたから「なんだ諦めたの」と言った。言ってから、ああこれ荒塩だったと気付いた。案の定木野は歯をくいしばって悲しすぎる目が僕のまぶたに焼きつく。とりつくろうように笑って奴に歩み寄って頭をぐしゃぐしゃ乱暴に撫でる。崩れた前髪の下すぐに驚き顔にシフトしたその表情筋に安堵して、てのひらの少しかたい髪の感触を覚えて僕は言う。


 「お前何度でも行くって言ってたじゃない」
 「だってそれは脈がないわけじゃないかもって思ったから」
 「何を根拠に?」
 「…加賀、の反、応」
 「で、今回は脈ないって思った?」
 「っ…気付いた」
 「傷ついた」
 「はあ?」
 「お前傷ついただけだよ、何言われたか知らないけど」
 「だって」
 「自分を傷つけたくらいで嫌いになるような相手だったの」
 「そんなんじゃない」
 「何が?」
 「嫌いになんかなれるわけない」
 「じゃあ何でやめんの」
 「…迷惑、だから」
 「今更?」
 「お前」

言葉を濁す、そらす、見上げる、反駁する、かみつく、またそらす、悲しむ、のを全部見ていた。そして僕は笑った。


 「早くしないと取っちゃうよ」
 「な…っ」
 「お前を」
 「…はあ!?」

芽生えかけた怒りが一瞬で仰天に変わるその声は好きで嫌いだ。うそ、とささやいて目線で笑いかけてじわじわと赤くなる頬に喜びながら、僕の見立てじゃ確実に最近のそれが「脈」だよ、ということを未だ掘り当てないこいつにどうほのめかしてやるかを考えた。

 


◇◇◇

 


(虹と色/久藤→木野)

  
 「…ぶどうと、虹」

木野がひどくぽつりと呟いたその二言は僕の記憶の錠前を針金のようにぴんと外した。あああれはいいね、と素直に返すより先に僕は少しだけおかしくなった。だって木野はたとえばひなげしを好きだと思ったから。そう言ってみたら、流行追っかけてケガしかけて助けてもらったのに恩知らずな娘たちって、なあ、と少しだけ不服そうな眉とくちもとで言われる。これまた思いの外まともだ、と返すと怒られるので言わなかった。こいつ案外まじめなんですよ、って代わりにいいふらしたくなる。ただ、女の子達とか好きな子だとかの前ではかぶるお面をまちがえてしまうだけなんです。肝心な所ばかだから。

ぴくぴく笑ってしまう頬を見とがめて結局木野は眉をつりあげる。まあまあ、ってポケットを探って飴を手渡すと、丁度いいことにぶどう味だった。小さな包装をじっと見ながら、あんまりよく覚えてないけどあの子は幸せになれたのかな、と木野が言った。しあわせ?ぶどうが?、ああいや何かあったじゃん別バージョン歌手の人と医者になる女の子みたいな、あああったねえアフリカにゆくんだっけ、たしかそんなん。弾むわけでも淀むわけでもない会話がつらつらと続いていく。おかしなようでずいぶんまともなこいつが何を思ってこんなことを言うのかは知らないふりだ。僕の頬がひくりと苦笑いに揺れる。


 「僕もうろおぼえだけど、虹はぶどうを褒めるよ」
 「つってもさ、ぶどうは虹には適えないだろ」
 「でも、虹はぶどうを見て初めてアメシストの色を知ったよ」
 「…そんなんあったっけか」
 「いま僕が作った気がする」
 「好きだよ」
 「僕も」


紙がかすりと落ちてきたような呆れ笑いの告白を受け止めて、目元をやわらげたまま奴が恋文を飛ばす相手を思う。ああ、あの子は好きだろうね。誰かのために消えてしまう無限の宇宙の話。何年も前に買って本棚にしまいこんだのを引っ張りだして、埃を吹いては飛ばして読みふけってしまうのも仕方がないことだ。僕は蠍になって赤々と燃えたいとは思わないし、君とあの子が信号機になってしまうのはいやだし、本当にあの人救いも下げもない話をいっぱい書くんだよ。うるわしの少女は存外、そんな話にこそ安心して心を放り出されるのかもしれないけど。くりかえし繰られる頁、何度でも泣く万象、白い指をお前が手にとれる日はくるだろうか。

一緒に電車に乗ろっか、水辺には近寄るなよ。木野はぶどう味のする食えないにやりをして答えた。

 


◇◇◇

 


(濃縮還元/先生と可符香)
  

二学期の始めというのはいつも以上に気が重い。学生時代も教職に就いた今も、たとえ休み中にも散々生徒たちに振り回されていても、滅入るものは滅入る。朝方はかたくなに布団を頭まで被りこのまま夜になれと願ってためらわない。無論ひきこもり少女にひっぺがされつきまとい少女に支度をさせられするのだけども。そうして辛い仕事を終えてやっと放課後となり、宿直室に戻る前に少しは校外の空気を吸おうと下駄を転がしたところ、少し裏手の坂道の辺りに髪止めの少女が立っていた。思わず身構える私に、これまで何度も私を破滅させかけた彼女はてらいなく笑う。まるで悪ガキをたじろがせる近所のお姉さんか、愚者をあしらう聖女だ。

 「お医者に行くんですか」
 「…行きませんよ」
 「あれ、行かないんですか」

西日を背中にくるくる笑う少女は風にスカーフを揺らし、その声を遮断して歩を進める私の隣にちゃっかりついて歩きだす。ああ苦手だと思うと同時にああ自然だと思う。その軽やかな歩幅にあまりに馴染みすぎた。喩えるとあの夕日が目を焼くのをもう不愉快とも感じないように。


 「どこへ行くんですか」
 「散歩ですよ、…何で私が医者に行くと」
 「また気落ちしたってお薬ねだるからです」
 「ねだってません」

少女の時に耳につくほど高らかな声は存外心まで刺さらない。時折えらく鋭利になることも知っているが、今この時は全く平穏だった。年の離れた妹と同じ歳で、片時も懐を許してはならない気心の知れた友人というか、そんな不可思議な存在がいる。相手がこちらをどう思っているかなどということは、けして知りたいことでもない。


 「わあ先生、私たちの影うしろで寄り添っていますよ」

何が楽しいのか歩きざまにくるりと回って見せた少女は朗らかに言う。転びますよ、と私は年上ぶって言う。どこまで本気か、どこまで演技か、どうでもよかった。下り坂に尾のように伸びる影を思うが引きずり歩く情景ではなかった。影だけ登っているように見えるからか、と子供のようなことを思った。

 「影たちとても仲良しに見えます」
 「そうですか」
 「これは、じゃあ、不自然婚でもしましょうか」
 「…あなたね」


少女の戯言を軽くいなし、私は周囲から漂う夕餉の気配に気をとられながら呟いた。何気ないふりの大暴投か心底何も考えなかったか次の瞬間忘れた。

 「仲直りはしたんですか」

すかさず少女は微笑したままの仮面で私の鳩尾を鞄でしたたか殴り、俯いてだから嫌なんですと言った。私は強く痛がりながら小さく謝った。私たちは所詮同類で、むなしい心をせせりあい、さびしい箇所で掴みあう。私たちは夕日に向かって歩いている。

 


◇◇◇

 


(金色のパン/久藤と木野)

  
シナモンなんかを隠し味にした甘い卵と牛乳で厚切りの食パンを浸して、フライパンを熱して有塩でいいからバターをひいて、そこにひたひたのパンを置いたらじゅうっと言うから、外はまさしく狐の焼き色に中はきちんと火が通ってやわらかい食感になるように注意しながらじっくり待つ。…なんて工程がさっきからエンドレスで頭を回っているんだけど、それはついさっきそういうおいしくニヤけるフレンチトーストの出てくる話を読んだからに違いない。おかげでさっきから目が回るくらいお腹がすいて、ああ空腹と食欲ってこういうものだったっけなって思い出したくらいにそれが食べたい。僕はこういうときにつくづく文学は偉大だって思う。ともかく今は一刻も早くあれを焼いてバニラアイスのひとかけでも添えてやらないと気がおさまらないだろう。

でもな、と枕元の時計を見て思い直す。針は文字盤の4と半分くらいを指していて窓の外は顔を上げなくてもわかるくらいに真っ暗だ。外から見たら僕の窓だけぽっかり浮かんで明るいことだろう。こんな時間にのこのこ起き出して台所でパンを卵に浸すのはなんとなくためらわれる。家人に気を遣う必要があるとかないとかはともかくとして。そして一晩読み入った結果として体だけがだるい。頭に睡魔はこないのに足はベッドに張り付いて動かない、つまり起き上がり眩みしそうでおっくうきわまりない。それから冷蔵庫に卵と牛乳が揃っていたかとかもうチョコレートのアイスしか残ってなかったかもしれないとか、そもそも食パンを昨日は薄切りのやつを買ったんだったようなとか、やる気をそいで欲求を強めるような情報がにぶい頭をくるくる回る。ああ、だめだ、僕は今ただ金色のパンが食べたいだけの人間になっている。ものすごく明確に写真が浮かんでいる。食べたい、食べたい、ああ。


というような考えを袋小路に巡らせていたらいつのまにか携帯電話を開いてこの思い届けとばかりに文字列を送ってしまったらしく、さらに僕はいつのまにか昏倒のように入眠してしまったらしく、けたたましい着信音に圧されて目を覚ましたところ、家の表に厚切りパンと卵と牛乳とバニラアイスの入ったコンビニ袋を抱えた少年が不機嫌そうに立っていた。せいぜい美味いの食わせろと彼は正当に上がり込んだ。時計はまだ6時過ぎで、僕は謝りながらちょっとだけ赤面する。余計なことまで書かなくてよかったなって思ったけど、不明瞭なメールをよく読むと「お前とたべたい」の一文があった。 

 


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送