(冬の朝/久藤と木野)


冬の朝にしては不思議なくらい暖かい陽気だったので俺と久藤はいそいそと階段を降りた。さっき教室の窓から外を眺めていてふと振り返ると奴と目が合ったのだ。にっこりとにやりを交差させた瞬間に各々本を携えていたんだから俺はもう少しあいつに関して自負してもいいんじゃないかと思う。でも久藤は誰とでもすんなりアイコンタクトくらいはできそうだと気づいて並んで廊下を歩きながら少しだけ沈んだ。
どことなく色素の薄いきれいな造りの垂れ目は甘いふりしてあなどりがたい。信じたわけじゃないけど糸色先生の持論を聞いたときはああ本当にこいつは心を読んだっておかしくないもんなあと同感したものだ。出席もろくに取らない担任は二人くらいふらっとどこかへ行ったって何のお咎めもない。委員長、じゃないやキッチリ嬢は怒ったり憤ったりするかもしれないが、その怒りの爆発は八割くらいの確率で先生の自業自得な引き金だ。芳賀と青山は二人だけサボってずるいとわめくかもしれないので後で飴でもやろう。厳密には授業に出てたってよそのクラスよりはてんで適当なんだけど。
その他つらつら考えるとあのクラスはやっぱりすっかりオカシイのだが、俺はあの自由すぎる雰囲気が嫌いではなくてむしろ好きだった。久藤はどうだか知らないが、無関心そうな微笑で他人をそっくり観察する癖がある奴にとって飽きのこない環境ではありそうだ。半歩後ろから見る無造作頭の後ろ姿は既に本を広げながらとろとろ歩いていたがそれでも格好がいい。ずるいよなあとこっそり息をつく。背が高くて顔がよくて賢くて穏やかで動じなくて特技がいくつあるのかわからないようなこいつは、この俺ですら時々こっそり対抗心がなえるくらいの高級品だと思う。欠点と言えば時々妙に辛辣だとか気紛れにからかってくるのがうざったいとかくらいなものだ。ただそれも甘えみたいなものだと思わされてしまうとうっかり許せてしまう。とまで言うと芳賀や青山に気持ち悪がられるのだが俺はあまり悪くないと思う。



◇◇◇




 (答える人の/青山と木野)


 「さっむいな!」
 「さっむいね!」

校舎を出たとたん二人で言い合った。妙に語尾がはしゃいでるのはもう逆にテンション上がるくらいびゅうびゅうに北風がすさんでいるから。日差しだけは春みたくあったかい晴れの日で、俺たちはコートの襟をたててこざかしく首を守ってみたりしていた。でも木野の着てるやつはもはや襟じゃなくて布製の柵みたいになってるので最初からそうっちゃそうなんだけど。えっとなんだろう昔のポルトガル商人みたいな、サーカス団のえらい人みたいな。
かけ慣れた眼鏡が向かい風に押されて顔面に微妙な違和感を与える。手をやると体温を感じないくらい頬やら鼻先が冷えてたけど指でなぞると指のが冷たい。冬まっさかりそのものだ。手袋つけてくればよかったなって朝も思ったけど。息はくっきりと白い。

 「な、どっか寄ってかねえ?あったかいもん飲みたい」
 「思った!駅前のとこでよくない?」
 「あーでもなんかこう俺いま…そこはかとなくがっつりしたバーガー的なものが…」
 「クーポン使っておごらせる気だろ」
 「ばれたか」

短い掛け合いをやってげらげら笑い合う。今日は芳賀が学校休んじゃって珍しく二人だけで帰っていた。一対一で横並んで話すのがなんだか新鮮でけっこう楽しい。いつもはやっぱり三人か、それか木野が委員かバイトでいなくてあいつと二人とかだから。ちなみにちょっと気になって昼にメール打ったら今やりこんでるゲームでうっかり完徹しちゃってだるいからサボったという旨の返信があった。心配して損したのと出席番号がずれて難しい問題に当たっちゃったのがむかついたので事実をそっと歪曲して女子の輪へと広まりそうな方に伝えておいた。同じく板書で固まる羽目になってた木村さんがあいつ訴えると息巻いていたので作戦は成功すると思う。せいぜい困れ。
という話を木野は昼に図書室行ってて知らないはずだと思い出したからバーガー屋に行く道すがら語ったらくっくっと少し意地悪く笑ってくれた。猫みたいな目が楽しそうに弧を描く。口許は高い襟に埋もれて隠れて見えない。布地の表だけくしゃくしゃよれて芯に針金でも入ってそうな襟だ。今日の上着も装飾が突飛である。でも袖とかふわふわしてて防寒も充分そうだからいいんじゃないかと思った。
 


◇◇◇





 (いっしまとわぬ/久藤木野・温泉回)



さすがにまあ、広い湯舟の温泉というのはいいものだ。たとえ誰かさんたちがばか騒ぎをしていて、それに巻き込まれないよう端っこに逃げていたとしても。適温の湯にゆったりと肩まで浸かって湯煙に目を細める。その向こうにほの見える光景は放っておくことにした。いまどき小さな子供でもあれほど野放図には遊べない気がする。特にこんな公共の場所で、といってもほぼ貸し切りみたいな状態だけど。
今回の旅行ではどういうわけか担任教師の兄二人までもこの宿に来ていて、うち一人で何かと行動が突飛な方の人物とあの頭の造りが楽しそうな三人連中は気が合うというか一緒にはしゃぎ回れる神経らしく、さっきからもうぐだぐだの大狂乱だ。医者であるもう一人のお兄さんは苦い粉でも飲んだような顔で泳ぐな歌うな走るな飛ぶなと少し遠巻きにしてがなっている。皆は知らん顔で遊び回っていい湯だなあなんて合唱していた。自分が参ってしまいますよ、と忠告するにはまた大声を出さなきゃいけないだろうほど彼とも離れているのでやめた。
そもそもしっかりした大人相手に少々の心配などいらないだろう。本当にあの人たちは兄弟なのかと思うほどだ。ここにはいない担任教師その人と僕らと同い年の妹さんを加えたとして、共通する点が見つかるかすらもあやしい。意外と兄妹なんてそういうものなのだろうか。なんてそこまで親しくもない一族相手にぼんやり考察をしていたら、やがて木野がちゃぷちゃぷと湯をかき分けてこちらへ寄ってきた。あのけたたましい輪の中心みたいになっていたくせに、僕に近付くにつれ疲れたようなほっとしたような笑顔をしているのでおかしかった。仲間と遊び飽きた犬の子みたい、飼い主になった覚えはないけど。

 「どうしたの」
 「泳いでばてた!絶景先生すげえ速えんだもん、降参」
そもそもここはプールじゃないし周りの岩がごつごつしていてぶつかったら危ないしあの人は何だかよくわからなくて怖いからあまり近寄ってはいけない、などということはたぶん絶命医師がさんざん言っているだろうなと思ってやめた。その代わりに僕の傍へ辿り着いた木野の額に手を伸ばして軽くでこぴんをしてやる。普段跳ねたようにしている前髪が濡れて後ろにまとめて流してあって、現れたおでこが賢そうに広いからなんだかうずうずしたのだ。もっとも生え際は黒々しているからそういう心配はないと思う。
木野はいきなり弾かれた額を恨めしそうに押さえながら、ざぱざぱ歩いて僕の隣を反り返るように陣取った。不服そうに尖らせた口がくちばしのようでほんの少しかわいい。
 「何だよ、お前が寂しそうだから来てやったってのに」
訂正、やっぱりかわいくなかった。寂しかったのはどっちだ。そもそも僕はお前らがうるさいから避難してたんだよ、という至極当たり前の言を返すのもためらわれた。負け惜しみみたいに受け取られかねないからだ。

そうこうするうちに木野が顎の先まで身を沈めてふうと息をついたから僕は完全に期を逃してしまった。木野の頬や鼻先や瞑った目のまぶたまで薄ら赤くてまつげまで小さく水滴がついていた。案外白い肌色のかたそうな体を無防備に湯舟の中へ投げ出して、ぺたりと濡れた頭を岩に預けている。ああやっぱりあんまり側にいられるとだめだな、と僕はため息を宙に逃がす。冷えた頭が情動にふやける。
鎖骨のふちとか時折こくりと動く喉元とか微かに浮いた胸骨とか露わな耳とかうなじにかかる濡れた髪とか、不思議なことにすべてやましく見えるので顔を背けた。目のやり場に困る僕が嫌い。しかしこいつは静かにしてればきれいな顔ではあるのだろう、と思うんだけどだからってどうなのかとも思う。などと何百回めかのデジャヴに眩みながら不意に視線を戻すと、いつのまにか黒目がちの切れ長がこっちを見つめていた。あたたかな湯の中でこわばる肩を自覚しながら首をかしげると、まじまじとした視線は明らかに僕の体の線を検分しだした。言える立場じゃないけどやめてほしい。だからこそやめてほしい。
 「セクハラ」
居心地悪すぎるから致し方なく手刀を落とした。木野はぐげ、と言って頭を押さえる。あんまり浸ってるとのぼせるよ、とだけ言って逃げようとしたけど、追ってくる気がしたから少し距離を置くだけにとどめた。
 


◇◇◇

 

(読書会/木野と久藤)

 

第二章の終わりに紐を挟んで閉じたら、ほぼ同じようなタイミングで向こうも閉じたからなんか嬉しい。俺はこの本を閉じる瞬間の音が好きだ。軽めの本がぱたんとごく軽く空気を含んで落ち着くのも、重たい本がばたんと俺の指を噛む勢いで頁を合流させるのも。質量がどうであれ誰かが開いて読まなければ永遠にそこに展開しない世界、ていうのは久藤の言い回しだったけど確かにそうだから、俺は本を開けたり閉じたりするのがいつも好きだ。

 「何か飲む?」
指で軽く目の間を揉みながら久藤が言う。俺は寝転んでて久藤はあぐらで座っていた。コーヒー甘めで牛乳多め、と答えたら了解と返って卓に載ったマグカップ二つが回収されていく。代わりに置かれた、俺の手元のと全く同一な装丁を、未だに少しにやつきそうに見てしまう。照れとおかしさとなんとなくの喜びだ。
これは二人で同じ本を一緒に読んでいるというそれだけの会である。ペースを合わせるのと目を休めるために適宜配分を区切って、相手がそこまで来るのを待ってお茶を入れたり昼食を挟んで休憩する。そこで途中までの適度な感想を言い合って、あるいはあまりに面白かったりすると二人とも黙々と茶を啜って、また読書を再開する。そうして読み終わってからが怒濤の(しかし表面上は淡々と)、総括とか批評とか絶賛とか哲学や何かの話に飛躍したりをあれこれする。万一つまらなかった場合でも耐えて読み切り、そのわからなさを怒濤で分かち合うのが暗黙のルールである。片方が気に入って片方がわからないと適当な段階までレクチャーが行われるが、まだ不可解だと双方それなりのところで切り上げるか切り上げさせるかするのが必須だ。奴とはこの辺の弁えがぎくしゃくなく上手いので、喧嘩になったりすることはほぼない。

 「…おもしろい」
出された茶でクッキーをさくさく食べていたら久藤がぽつりと言った。ふと見ると目が静かに輝いている。多読派のこいつが素直にそう言うのは珍しいので、そっか、と言う。今日のは俺は推薦した本だからまた少し嬉しい。俺自身はまだよく掴めていないのだが、まあそれはそれで。久藤が読みたそうにしているのでカップを洗うのは引き受けておいた。洗いながら二人で一日読書って男子高校生の休日の過ごし方として、とは思ったがすごい楽しいからもうそれでいい。戻ってみると奴はもう夢中だった。苦笑して俺もまた本を開く。今日は熱心な語りを聞く側になりそうでほぼ本筋よりそっちが楽しみだった。

 


◇◇◇

 

(蛹/久藤→木野)


蛹のなかみは組み直すためにどろどろなのだという。だからちょっとありきたりだけど、今は誰も彼もみんな蛹のようなものなのだと思う。別に将来蝶みたいに全く変わるのか定かじゃないし、殻から元のまま出てくることもありうるが。ただ成長途中のぎくしゃくした硬直、愛や欲や情熱がふきだして混沌する中味につき動かされるままカチコチの外身で躍ってしまっている。そんな彼らを不器用だなあと思いつつ微笑む僕は、繭を作るのだかそもそも変貌するのだかもあやふやだ。それは外から見たら僕だって立派な蛹であるのかもしれないが、外から見ている人だって未だに蛹だっておかしくないような環境だから信じきれない。ともかく、僕は彼らをある種見守っている。

 「わからないの」
普段は全く有能果断の一言に尽きる長髪の少女が、僕の目の前で顔を伏せて言う。曰く、己の心が傾く相手が誰なのかもうとうに不明だと。俯く顔のかすかに覗く瞳のゆらぎはそれぞれ異なる人物の姿を浮かべているらしい。その葛藤自体は知る由もないが、いずれも近しいひとに恋をするのは疲れるだろう。
 「わからない」
入れ替わり、包帯にお下げの少女が珍しくやってきた。似たようなお悩みで片方だけ違う人らしい。隠れていない方の目でずっと右手の包帯を辿っていて、それが迷路なようだ。
 「ああ、わからない」
余程他の子よりは平熱そうな少女もその後来た。こちらは恋か否かに迷っているだけだ。格段に軽くなった受け答えで流しながら、俄かに流行病するよりはまだ良さそうな人格を知っているけど野暮は言わない。

蛹たちはよく僕に相談しにくる。だからやっぱり僕はさなぎじゃなく見えているのかもと思う。蚊帳の外だからかもしれない。僕は各々に忘れたけど何か答えた。それなりにせいせいした横顔で蛹たちは席を立つ。ではまあ早く羽化できたらいいね、とひっそりと思ってみる。少しだけ面白くなる。

 「わかんないんだよ」
少年が困り果てたように言った。奇遇だ。僕も一つも面白くなくそれを聞いている。今にも泣きそうな情けない顔を見て、じっとかっちりした殻を作る自分に気付く。むしろ貝だとうそぶきたくなってくる。どろどろの中味をちうちう吸えたらいいのに、とがった針のくちを持っていない。
 「知らないよ」
本日初めて明確にまちがえた言葉が飛び出た。正しくは、僕もわからないことがあるけど聞いてほしくない。と、お前の蛹の外し方だけは知っているし教えてやらない。以上。

 


◇◇◇

 

(そういう/木野と久藤)


天才がくちびるの片方を曲げて蟻のような文字列に目を眇める。単純だよね、と一言で切り捨てた裏におそろしく精緻な論理が見えて俺はその作者のあいまいなフォローすらできなくなった。しようと思わなくなった、かもしれない。別に元々好きなわけでもない読むの二回目くらいの作家だけど。なんかただ複雑にしたかったんだろうなって筋書きを俺もうっすらとはそう思って読んだけれど。しかし。
目の前で文芸雑誌のすべすべした頁をめくる指のかたそうな細さを盗み見ながら、こいつの言葉の半ば暴虐的な強さは何なのだろうと思う。ふりかざすでも叩き切るでもないただ相手の世界を冷ややかに終わらせられる、居合いで気付いたら真っ二つみたいな背筋の震え。偽悪的な甘さが見えない、淡々とした致命傷。もしこいつを本気で怒らせて日常会話に本気レベルの毒針を仕込まれたら五分で再起不能になれる。何も知らない他人に言ったら中学二年かよと笑われかねない話であるが、こいつのこういう面をちょっとでも知る人は頷いてくれそうに思う。

 「あ、木野がこの前教えてくれた人は結構よかった」

…そして、そういう厄介な奴が自分にはちょっとやさしいと、なんだかものすごく息がつまるほどの心臓の飛び上がりがあるということも誰かに同意してほしい。けど、あんまりいないであろうことと、いたらちょっと面白くなくなるかもしれないことはわかる。いや別に恋とかそういう話じゃなくて、こう、わかる?と言ったらわからない、と即座に首を振りそうなやつ二人の顔が浮かぶ。だからあれ、あれだよ、ツンデレっていうやつ。とかいうことを考えていたら、聞いてる?とものすごく怜悧な視線が飛んできたので、それにもちょっとぞくっとした自分が薄々心配になった。

 


◇◇◇

 

(耳朶/久藤木野)


奴は二人でいるとき偶にわけのわからないことをしてくる。人恋しくなった猫かという、擦り寄ってきたり蹴たぐってきたり首に腕を回してきたり、しかも真顔で突然だから質が悪い。なのにこっちが噎せたりすると真顔のまま背をなでたりする。だが当然悪びれもしない。俺はやれやれとその気紛れを甘受する。制止や反撃を試みたら余計痛い目に遭ったから。こんな雑なスキンシップをしてくる生物だとはと不平を言ったら、特別、と抑揚もなく呟かれたからではあんまりない。そこまでお手軽な人間じゃない。
さて今日も奴はまたしれっと俺の背中に被さるようにくっついてきた。ここは俺の自室でベッドに腰掛けていたところを無遠慮に寛がれている状態である。一点に体重のかかったスプリングがギシィと苦情を上げた。重い、と言ったところで退く気配はない。いや別に嬉しいんだけどひっつかれるまでなら。のしかかる結構な重みと硬さと体温を背中に感じながら、次はどこにどう衝撃がくるかと怖々する。雑誌をめくるのをとうに諦めた手を膝でしっかりと組んだ。

 「…何ですか」
 「何でも」

何でもってことあるかと眉を寄せる。さっきから前髪を掬ったり掻きあげたりしてくる手は触れるたび少し冷たい。ぱらぱら乱れる髪で視界がうっとうしい。でもまあこのくらいだったらいいか、と思っていたらいきなり生え際と耳のあいだに指を差し込んでこめかみを両手の平で覆われる。いやきもちいいけど何がしたいんだよ。力を込められたら嫌だなと怯えたもののその気配もない。マッサージにしては荒いし、背後の表情は見えないし、でもたぶん真顔だろう。わからん、と溜め息をつく。ついた途端に後頭部に顎を乗せられて、そのまま喋ったからかくかくと振動がきた。発言の不可解さと同じ揺れだ。

 「耳塚ってあるよね」
 「藪から棒に怖ええな」
 「そうかな、まあ怖いか」
 「何の話がしたいんだよ」
 「ピアスとかしないの」
 「する気しない、痛そうだし」
 「痛いの嫌?」
 「おう」
 「じゃあやめとこう」
 「何」
 「耳がすこしほしかった」

振り向きざま振り払うようにしてベッドに仰向けに転がし、苦しくはないよう素早く布団でくるんで三分待ったら寝息が立ったのでふっと脱力した。適度な押さえつけ方を会得している自分にちょっと同情。二分前に抗議に混ぜて言われた、耳の形が好きなんだよ、という言葉がまだ不条理に頭を回る。あげちゃいそうになるからやめろ、とはさすがに言い難い。あげない。布団の中ですやすや寝てしまっている奴の持ち物検査をしようかしまいかふと悩んだが、あえて行わずどうせ寝言で本気ではないだろうと結論づけることに決めた。怖いし。

 


◇◇◇

 

(メランコリック/久藤→木野)


情愛というのは苺味のザラメでも檸檬味の接吻けでもなくてもっとベトベトした嫌なものなんだと知った。舌打ちと歯噛みの感触とかどうしても眉間にこもる圧力だとか、喉がかわくとか少し苦いとか知らなかった。ぱくぱくと空しく何か言いたがっては結局押し黙る、それすら気付かれないように小さく収めては真っ直ぐな後ろ姿を眩しくもなく目を細める。覗く曲線の前髪が一定の足音を保って耳のやや上をわずかに跳ねる。少し後ろをついて行くように歩いている僕は今日も無気力なだけだと思わせられているだろうか。君の恋心に嫉妬しているなんて格好悪すぎて、枕にも三文芝居にもならない。
暮れ時の街は均一な薄青に浸されて数分間だけのうつくしさをもう見せてしまった。惜し気もない絵具をまで神様は使ってくれる。きっとこんな色では物足りないのだろう彼は薄紺の中でも迷いなく歩く。僕はただそれと連動するようにふらふらと足を進める。すごく好きな色合いに浮かんだ黒い学生服、詰め襟と後ろ髪のあいだにだけ覗く白さも写すだけのカメラがほしい、できたら経年劣化しない形に焼いておきたい。思考も何もおぼつかない、あてどもない。初めてだったことばっかりで泣きそうな毎日をいつまで続けたら涼しい顔やめられるかな。ちぎれて徊っていく雲が弱い強弱の空でいつまでもぬるくのさばっている。せいぜい数分の悪気もない沈黙は、奴には穏やかでも僕には刺さって刻まれてしまって困った。

そのとき、「なに」と出し抜けに振り向いておきながらあいつが言った。何って何だよ、って思ったけど本当にいつのまにやら僕の右手は奴の腕をごく頼りなく引いていて、それをやったのが声をかけられる前か後かも判別できない。全く頭もふわふわしている。心臓じゃなくて肺の近くにわだかまってる、空虚に近そうな何かにあやつられすぎているんだ。
木野は振り返ったまま少し考えるために反対の手指を口許に置くそぶりをして、結局僕の手をそっと払ってしっかり握ってしまった。制止なんてしないし寂しくなんかもない。自然と合ってしまう歩幅で冷たい熱を温める手の内にやわらかな湿度を感じてきわきわに苦しいから、ぎゅうと奴の手に爪を立てる。やめろよ迷子、って木野が笑うから空虚があふれだして正しい体積になる。

 「どうせもし加賀さんとつきあったってお前も好きなんだよ」

あーあ、と苦笑する横顔の明朗さが本当に好きで嫌いで嫌いで、べとべとする情動のせいで頬の内側がまた苦くなった。

 

 


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