(わななけ/久藤木野) 

泣くという行為、涙するというよりはもう少し、目の奥や手の先や肺の底から自分の泣きじゃくる反響が飛び交うようなあの泣き方、あれには精神的な負荷や何かを一緒に追い出してしまう効果がある…なんてのは聞き飽きたような話だ。僕自身はここ数年ほど縁遠いその心身の運動を、目の前の奴は飽きもせずくりかえす。今もまた、ひきつれたような音を喉から鳴らしてしゃくり上げ、臆面もない号泣をしていた。今日も我らが図書室は僕たちが借り切ったようなありさまで、いちおう抑えてはいるらしいぐうぐうという泣き声を我慢する必要はさほど見えない。赤いまぶたから頬とつながる噛みしめた顎の線に、涙が塩味に伝わってしたたっていく。

木野はやにわに、架空の死者の名前を、しぼりだすように呼んだ。また僕が同じ話をすれば簡単にここに再生されるファンシーな言霊のことを、旧知の人のように思って、耐えかねたような表情で、探す。えぐ、えぐというリズムでまつげを濡らしたまま何回か連呼する姿は、子供みたいだと思う。木野、と呼びかけるとやっと目の前の僕を見つけたのか、あいつよかったのかな、しあわせだったかなあと掠れて聞いた。さあね、と僕は答える。

「木野は、よかったと思った?」
「…よくて、よくない」
「じゃ、よかったけど、よくはないってことじゃない」
「…お前」
「なに、そこまで責任もてないよ」
「…うー」

木野は黙ってしまって変な柄のハンカチで顔を覆った。吸水性もなさそうなつるつるの四角い布地は、生まれつきストレス物質を生成しないのかもしれないほどにあっけらかんと歩いていくこいつに、似合いなんじゃないかって一瞬だけ不意によぎった。

「木野」
「なに」
「かなしい?」
「かなしい」

木野はまだぐずぐずに潤んでいる目のままでまっすぐ返答した。真っ赤になった目元が真っ白な目元にだぶって、幻視のほうはすぐ散っていく。じゃ、いいや、とだけ僕も言う。手をのばしてくしゃくしゃと頭を撫でると払いのけるポーズだけでおとなしい。泣き通しの頭はあつい。手に伝う温度と手から伝うだろう温度が接触点でとけあう。まぶたをゆがめたそのときにまた流れる涙に一滴でも、また、そこまで思ったところで僕は言葉に作ることをやめてしまった。

 

◇◇◇


(好きだよと一回言った/久藤と木野)


好きだよ、という言葉があまりに透き間風のように出ていったので、今なんて言った?と反問されることを咄嗟に予想した。けれど木野は存外にちゃんと受け取ってしまったらしく、キョトンと目を開きながら、おう、とだけ言った。少しの戸惑いと疑問は当たり前と安直のトッピングにすぎないみたいな、真っ直ぐな目だった。僕はあんがい眠たい凪ぎを保ったまま一回頷いた。おもしろくないとか安心とか照れとかそういう感情も遠くに忘れてしまったようで、陶然じゃない当然が辺りに満ちているのが、なぜだかむしょうに心を包んだようだ。

 

◇◇◇


(みつけた/久藤木野)

たとえ整然と並ぶ席に雑然と人が座る広場でもきっと奴の後ろ姿だけすぐ見つかる。人々があふれだしてごった返す街の喧騒でさえ、俺は奴を見失わない自信があった。背は高いけど飛び抜けて頭抜けているわけでなく、脚は長いものの手元の紙面に気を取られて頼りなく進む傾向にあり、いつでもふらりと消えてしまいそうなものを、それだからか俺は見つめて歩いていた。間近で見ずとも光るような貌が振り返るたびに等しく心が浮いた。男相手に、というしっくりこない感覚で自分にひきつり笑うけれども、ああでも仕方ないな、あれは仕方がない。神話でいうところの人類をたらしこむあれ、ほだして揺らして惑わせるあいつら寄りの人類に敵う術はない。沼に沈められた覚えはなく、むしろ先導するように歌うから世界は夢見色だ。だから奴の無造作に髪の跳ねた後頭部に、うつくしいまつげに陽光が舞う、あれが俺をじんわりと安心させるのはもはやそれとして定まった事実なのだとあきらめてしまっている。

 

◇◇◇


(独白/久藤)

僕は僕の愛が嘘寒くて仕方がなかった。いまだに確証のひとつも持てない雛の刷り込みを疑う恋だ。好きだ好きだと思って己の肩をかかえた傍から空しい心にすかすかと風が通る。喉がかわくのにも気管支が荒れるのにも似た、ただあの二文字を言いたがってもつれる舌を口蓋に隠しながら肺がすくむ。なぜ込み上げるのかわからない涙と、なぜかちっとも開かない涙腺を余しながら、痛む目頭から毒になって脳を巡った。
ああ、もう、春も夏も秋も冬も君で過ぎてしまう。一生言わないだろう台詞ばかり浮かんでは破いていく。腹立ちまぎれに乱暴に腕をつかむとあきれ顔で受容されるのが常だから、やめた。なぐり書きでもむなしく整う字であいつの名前を書いて、打ち消し線を引きたかったのに、ずれて下線になった。

 

◇◇◇


(女子と久藤木野:小節さんと) 
  
「木野くんって久藤くんを見たらしっぽを振るのかと思ったら、少し違った」

唐突に落ち着いた声で呟かれて、顔を上げても包帯と眼帯に半分近く覆われた無表情から真意は見えない。アヤナミ、ときっと何度となく言われただろう連想からやっと言われた言葉を脳内で回す。自分の眉が寄るのに気付く。座る俺を見下ろす彼女は長身で、静かにまばたきをする露な片目は凛としている。我らが図書室の貸出カウンターは今日も全く閑散としているから、利用者と少々喋ったところで誰が迷惑するわけでもない。でもこの論題は少し不可解で、何だったらカチンときて眉を上げる二歩手前くらいで困惑して突っ立っている気分だ。意外とそういうこと言うんだなと思う。返却印がつかのま宙をさまよっていたのをちゃんと図書カードに着陸させて、しかしそれを彼女に差し出す前に迷ってから口を開いた。ちんぷんかんぷんのままでじゃあと去られたら、幻惑されたように腑に落ちない。この感覚なにかに似てるなと思って、当のあいつだとああと手を打つ。もっともあいつ相手ではお互いもっと無遠慮で、その分引き際もある程度知っているが。

「しっぽ振るってどういう意味、へつらってそうだった?」
「違う、純粋に喜んでる方」
「…じゃあ喜んでなさそう?俺」
「それも違う」
「えーっと」
「わからない?」
「わりと」
「そう」

尋ねても答えても間が空いても慌てることなく、小節さんは感情の見えない目をしたままこちらを見る。澄ました顔じゃなくてどこか澄んでいて、なのに不透明に遠い。ますます似てる気がして、それでも彼女相手には対抗心すら起こる気がしないなと思う。あいつはもう少し近くて、深さや高さが見えるのかもしれない。

「なんだか、むかつきながらも遊んでほしくてしっぽ振ってまとわりついてるように見えてたんだけど」
「はあ」
「よく見たらいつまでもしっぽ振らないくせに側にきてる相手をあきれて笑ってるようなときもあるなと」
「えーと?」
「ああ、わたし晴美ちゃんみたいな趣味もないし、意味もなければ他意もないんだけど、見えちゃったから、しっぽが」
「…そうなんだ、しっぽが」
「見えたら掴みたくなるから、しょうがない。あ、別に木野くんや久藤くんに積極的にしっぽつけたくはないけど」
「そっか」
「そう。…あ」
「ん?」
「久藤くんもしっぽ、こっそり振ってる」

差し出した貸出カードを受け取って少女は笑い、俺は三十秒その姿勢で固まった。

 

◇◇◇

(女子と久藤木野:木津さんと) 

  
ある朝、発作的にすべての級友を一刀両断、ああ幸いなことに風紀面と精神についてをすっぱり言葉でぶったぎるだけ、それをし始めた木津さんが教室をつかつか歩き回りながら前から順々に指と眼光をつきつけていく。その少し苛烈な光景を眺めつつふと斜め二つ後ろの木野を振り向くと、何やらじっと目を伏せていた。組んだ手指を肘まで机にのせる面接官のような姿勢で、何回も試験に落ちてそろそろ悲しみが麻痺しだした人のように沈痛な顔をしている。見たところ珍しく問題なさそうなのに。実は見つかったらよほど血祭りにあげられそうな奇怪なものでも隠していて、今生を惜しんで合掌でもしてるのかと思ったけど、だったらあいつはなんとかごまかそうと最前までばたばたやって更に怒られる質じゃないかとも思う。そうこうする間に木津さんは木野の席まで回ってきて、眼前に仁王立ちする才女に木野は少し目線を上げた。

「…思ったほどひどくないわね」
「そうだった?」
「てっきりいつものごとく妙なシャツとか、学生服の上に更に何かとか、おかしな違反をしているものだと」
「ああ、今日は、ちょっと」
「でもまだ少しぴしっとしていない、ほら襟元を正してボタンをまっすぐとめて」
「ん、わかった」
「…どうしたの?正直拍子抜けしたわ」
「なんでもないよ、ちょっと朝に時間がなかっただけでさ…あ、いや」
「…まあいいけど、そんなひきつった顔して取り繕うふりされても、私以外の人間は心配するだけよ」
「…はーい」

聞こえてきた会話はこんなところで、木津さんが通りすがってしまうと木野は苦笑しながら肘を立てた拳に額を当てた。うってかわって後ろの席の藤吉さんは見るからにびしばし叱責されて、ひいと悲鳴をあげて青くなっている。それにかまわず僕が木野に視線を送り続けていると、ふと顔をあげた奴と目が合って、けれどひるんだような目で苦笑いをされただけだ。

「むかつく」

とっさの感想がはきはきと声に出てしまった。自分こそめずらしいことだとうっすら自嘲しながら、険しいだろう顔で立ち上がってつかつか歩み寄る。驚いたようにぽかんとしている木野の席に詰め寄って見下ろす。好奇に振り向いてくる周囲なんてどうでもいい。すぐそばで注意しあぐねたまま呆れている木津さんのことでさえ。

「教えてくれなかったら言い当てるけどいい?」
「…わかってんじゃねえか」

それはやめて、と言いながら何も言おうとしない頬の笑いが尚更苛立った、朝。

 

◇◇◇


(つい、そう/久藤木野)


ぼくはきみのことをことのほか好きなんだけどわかってもらえなくっても別にかまわないよ。何が可笑しいんだか知らないが奴は笑いながらそう言った。からかわれてるようにしか思えないと返すと、そうだろうねえとひっそり笑い声を立てる。自己完結にいらいらする。ああ怒ってる、と奴は俺を指さしてさらに笑いを増す。ぎり、と不機嫌に食いしばる擦れた奥歯が耳の奥にひびいた。それがいつだかのことだ。

きみってほんとうにぼくのことが気になるんだね。明確に笑いながら呆れた風情も混ぜて奴が言った。悪いかよと俺が返すと、まあきらわれるよりは嬉しいけどねとほほえむ。照れてじわじわ嬉しくて目をそらす。くちもとを覆って笑っている気配がする。ばつが悪く跳ねさせた前髪を指でまぜると乾いた音が耳元をくすぐった。それがいつだかのことだ。

ユージョーはコイゴコロに勝てないものなんだね。奴は茶化すようにけらけらと笑った。うっせえ何の話だよ、と俺が眉を寄せて言うと、わかってるんでしょ赤い顔して、とおもしろがった目をする。さっきぎくりとした肩をごまかすようにすぼめたまま口をつぐむ。奴は訳知り顔ですっと向こうに目線を流す。追い込まれて喉の奥でぐうと言うとぽんと軽く肩をたたかれた。それがいつだかのことだ。

俺は奴に無言で強く抱き締められていてかたい髪の感触を首もとに受けたまま何も言えず黙っている。俺の肩口に載った奴の額がふるえている。背中の布地を引き掴むその指がふるえていた。ひゅう、と息だけが喉に通る音がきこえてどちらのかわからない。けれど俺の心はぼうぜんとあきれの間ですくんでいたから奴の心のなかがまったくわからなかった。切実で、せっぱつまって、たまらずやったようなそのしがみつく体のこわばりを、まだ冗談なんじゃないかと思っている。これまでの記憶がぐるぐる回る。嘘なんじゃないか、とやっぱり考える。そんなそぶりに思えないのと思えすぎるのとが、頭のなかで渋滞を起こして世界が固まっている。好きとも嬉しいともさびしいともすでに言われた。残弾のないと言わんばかりに久藤は俺の肩でむなしく唸る。どうしようもなくて背中をなでてやろうとするとすぐに振り払われて、よろけて二、三歩引いた距離から俯いた久藤が告げる。

こんなことにはしないはずだったんだ、僕はずうっと隠しおおせてしまえるはずだったんだ。だってお前がいつまでもいつまでも気付かなかったんだから。顔をあげた久藤の熱をもつ涙がたった今だ。

 

◇◇◇


(今川焼/久藤→木野加賀、5年後くらい・久藤と木野が同居設定)


ざあざあ雨が本降りになる中を、左手で紙袋をしっかり抱えて帰る。春の匂いがする雨だな、と思う。少し薄着の平らな胸にまだじんわりと湯気まであたたかいのを、冷たくなってくる雨風からかばうべく傘を少し前に傾けた。大きな紺色の傘で視界の半分は紺色になる。ざばざば降る雨で残りの景色もかすんで見える。見飽きた帰路だ。あいつは喜ぶかな、と思う。僕が不意にすごく食べたくなっただけでもあるけど。今川焼が四つ、粒餡だけ。あいつはカスタードとかのが好き。半分こするには僕の胃は心許無いが、余ったら明日の朝焼いて食べればいい。手前にばかり余裕を持たせすぎてふくらはぎの辺りが濡れてきたのを感じながら、着替えればいいと思って頓着しなかった。

 「おかえりなさい」

傘を畳んで鍵を開けると思いがけない、とも思いがけるともいえない声が出迎えてはっとそちらを見た。声の主は遠慮がちにほほえんで玄関先に現れる。肩を過ぎるほどの長さになった黒いままの髪は下ろしてあって、さわやかで落ち着きある印象の服装で、淡い色のスカートの裾にはうっすらと刺繍が隠れている。数年前からも相変わらず白く清楚な花のような風情の少女だ。いや、年齢的にはすでに女性と呼ぶべきなのだけど。

「いらっしゃい、なんだかいいタイミングでお土産になったみたいだね」
とりあえず一人あたりの配分を再計算しながら紙袋を差し出すと、加賀さんは目を輝かせてそれを受け取る。美しさとあどけなさが不変で、まったく苦笑するしかないような気持ちになる。けれどそれをこそ僕は願ってしまっているのでもあった。湯気のために少し湿ったような気がする胸元を擦って、童女のような女性を見ている。紙袋を覗き込むその目に、だれかの安逸を見ながら。
「おかえり」
部屋着にしている古びたトンチキ柄のまま、本来の同居人もにやにやと顔を出した。こちらも変わっていないといえば変わっていない、そういえば。しいて言えば余裕と落ち着きが少し生まれたような言うほどでもないような。以前よりは思考も地に足がついたことは確かだ。少し短くした前髪はぼさっと下ろしたまま、食えない微笑は少し上手くなった。なぜだかほっとするのになぜだかうらめしいのが飲まれてしまうのは、今日の雨が思いの外冷たかったからだ。

「今ちょうど茶入れたとこ」
「わあ、それはますます好都合だ」
「おお、びっくりした」
「久藤くん、ありがとうございます」
「いえいえ」

靴を脱いで上がってぞろぞろと居間に向かう。若い男女が二人座っていた密室だというのにまったく安穏な空気だった。見ればわかる。だってテーブルに遠足みたいにお菓子広げてあるし、テレビでジブリは佳境に止まっている。そもそもそういったことを共用の場でおこなう人物たちでもない。ふらふらと座るとすぐさま木野が湯飲みを置いて、加賀さんはテレビ正面に座してそっと今川焼を皿に移しかえる。安穏すぎて笑ってしまう。居心地がよすぎて今日のこと全てが不意にうやむやになる。回復する自分が安すぎる。明日の朝あっためかえして食べられなくてもきっと、許してしまうのだろう。

 

◇◇◇


(ゆらり/久藤と木野・久藤が妖精とか見えちゃう系)


あ、という声を聞いてそちらを振り返ると、久藤の顔は通り過ぎた曲がり角にじっと向いていて、つられて俺も数歩先で立ち止まってそちらを顧みた。久藤はゆらぎも迷いもない横顔を見せて、頼りなく細い指を掲げて少し細まる道をすっと指し示す。ああでも逃げちゃったと言う声を聞くまでもなくそちらには猫一匹の影も見当たらないのだが、いるよと言われたところで俺の目には殺風景な路地の景色しか映らない。可愛かった?とだけ訊ねたら、木野が好きそうではあった、という返答に、それはちょっと見たかったなあと残念に思った。

友人からこんな特殊能力を持っていると聞かされたのは2、3か月前のことで、こいつにふっと天井やら背後やらをどこともなく見ているという神秘的な癖があるのを不審がって問い詰めたら、信じてもらえなくてもいいけどという前置きで教えてくれたことだ。だって木野があんまり怯えて掴んできたからといって笑うのを後から聞いたが事実とは異なります。俺自身がその能力について信じているかというとまあまあで、それは他の誰かが言っても真剣には取り合わないけど、こいつにだったらそんな力くらいあってもおかしくないという妙な信頼がある。この雑然とした俗世感ムンムンしかもやや寂れかけの街にそんな超自然的なものがいるのかという疑問には、彼らもそこまで清らかなわけじゃないし性質はピンキリでむしろ悪意のありそうな方をよく見るから汚れた都会に居ついちゃう奴もいるよ、という明快な答えがあった。野生動物が少なくても烏と野良猫はいるでしょ、そういうこと。それに納得してからは久藤が何かに気付いた様子を見るたびそちらを一緒に覗いている、他の誰かに謎がって眉をひそめられないよう内緒話で。野良猫みたいな見えない何かが、ふらふら街をさまよって見つかっては隠れてるなんてかわいいじゃないか。

 「信じたの、木野だけだよ」
心外なことにもとれる言葉にまた歩きだしていた足を止める。まるで嘘をついた後の含み笑いのような。何だよ、と不服そうに口を曲げつつ、でも本当はこれが本当だろうが嘘だろうがいい。こいつが一歩誤れば不可解がられるだけだろう選択肢でもって、俺と遊んでくれただけでも。だからねたばらしはやめてほしい、まだこうやって信じたような気持ちで信じられている気持ちを抱えたい。
 「言ったのも木野にだけだけど」
照れたように綻ぶ笑みに舞い上がった。奴らが本当にいたら今笑われたんだろう、ふと風が吹いた。

 

◇◇◇


(あわいいろ/久藤木野)

長い物語を読み終わった宵口にだるくて放心している。空は見事に何ともいえない赤だか青だかの余韻が残ったダークグレーで、背後の窓を開けたらきっと春だか秋だかな温度の風だけすいすい通るのだろう、久藤が寒がるだろう。毛羽立った畳に伸ばした脚と脚はかちあうようでかちあわない。二人とも制服のままで、足をずらすと硬質に黒いズボンがさりさり擦れる。もう暗いなって言って分厚い本の表紙を撫でたら、古い古い名前色の空だと久藤は教えてくれた。俺はその耳慣れない音の並びを聞き分けるのもおいつかずに微笑む顔だけ見た。
たった今読み切った物語を忘れていきながら、今が何時かも不明なまま、向こうの壁にかかった時計の針が薄闇にまぎれて見えない。壁にもたれっぱなしで頭はけだるく満ちて、何を考えているかというとすっからかんだとだけ言えた。立ち上がって電気をつけようという気すら起きず、本の表紙に片手をのせたまま人形のように座る。窓の外は光の余韻すらも淡々と消えていく。
いつしか手の甲にそっと手がのせられた。ぽつりぽつり建物の電灯だけ届いている。握り返そうにもそっと押さえつけられてしまった手を余している。手に力がこめられた。傍らの顔は見えない。ふっとキスがしたくなったのに、してはいけない感覚は未だそこに沈殿して残っていた。

 

◇◇◇


(和らぎ/久藤木野・いわゆる白久藤)

こんなにそのきれいな顔の近付きがたさをやわらげて笑うやつ少ないだろうな、といった雰囲気で久藤はほほ笑む。別に崩れたり間抜けたりするわけじゃなくて、なのに何だかすっぽり受け入れられてしまったような居心地の悪さ、背中のくすぐったさまで醸し出すくらいに笑む。今もまたゆるく弧を描いた目許が照らすように俺を見ていた。マイナスイオンって結局ガセなんだっけ、でもあれよりむしろ春先のやわい陽差しみたいに力が抜ける、さわさわ揺れて輝く花みたいに目は奪われる。口端をうっとりと上げて白い歯がわずかに覗く口許がやにわにひそひそと動いて、うっかり見とれて止まっていた頭が慌てて耳から意味を追う。他愛ない会話の途中だったはずなのに。

「そっかあ、木野は春好きなんだ」
「…好きだよ」
「僕も好きだよ。あたたかいし綺麗だし、日も早く昇るから」
「本が長く読めると」
「ははは、まあそうだけど」

久藤が声帯までしっかり震わせて笑うときの音はものすごく気持ちがいい。少し抑えた笑い声が静かに鼓膜を打つ。ああ似合うなあ似合うよなあ春、ようようしろくなりゆくやまぎわ。奴の背後の窓からの青空が眩しかったふりして目を細める。こいつ本当いいよなあ、と何回めかわからないけど思う。だから悔しくなって挑んだりしちゃうんだけど。負けて労われて余計好きになって悔しいんだけど。堂々巡りだけど嫌じゃなくて、ずっとこれでいいような感じまでする。とってこい覚えた犬みたいでかっこわるい。

「桜咲いてるあいだにさ、一回花見しようぜ」
「いいね、お茶とお菓子でも持っていこうか。門の前の桜もきれいだけど、公園とかもっと違うよね」
「あ、俺ちょっとした穴場知ってる」
「本当?嬉しいな」

久藤はそう言って微笑に少し照れをにじませた。男二人でじゃないよね、人いないところで、とか苦笑いを予想してたから乗り気なのを見て少し驚く。だからって今更そういっておどけたりもしたくない。折角だし受容されるままに流れていきたい。何が折角なのかわかんないけどまず確実に抱く友情が横道に逸れている。たぶん普通、早く満開の桜をバックに友人の笑顔を見たくなったりしない。雨が降って花が散らないよう祈ってみたりしない。わかってるけど、ふらふらついていきたくなってしまう誘蛾灯。春のまま眠る。

「花吹雪の中でお前のこと好きになっちゃったらどうしような」
けらけら笑って言ったら笑顔が一瞬曇って、不思議に思う前にまたすぐ会話は続いた。

 

◇◇◇


(らんちき/久藤→木野)

久藤が発泡酒なんかで酔っ払うことを初めて知った。弁明しておくとそれは全くの事故で、読み途中の文庫を片手にふらふらと飲み物を取りに行った久藤が、俺の家の冷蔵庫に常備されている軽い酒をうっかり手に取ってそのまま飲んでしまっただけだ。しかし、結果は結構予想外だった。

「きいてんの」
ぺしん、と頬を挟まれて俺は俯いたままはいはいと答える。きいてらかったでしょなんでうそつくのおこるよごめんなさいしなさい、とむっすりと赤い顔で久藤が睨む。完全に呂律がひらがなになってしまっている。そして言うことがままごとしてる五才の女児になってしまっている。こいつが酒弱いなんて夢にも思わなかった、と俺はまた嘆息を逃がす。俺とこいつはそれなりに清く正しく面倒なことは回避する高校生男子なので飲むとか飲まないがそもそも思考になかったけど、それでも久藤だったら顔色変えずにぐいぐい行くだろうと何の気なしに思った。大外れだった。くいっと無頓着に缶を呷ったのを見て、あーあ何やってんだよそれ母さんの酒だぜ、と笑いながら声かけた瞬間据わった目で振り向かれた。幸いそこまで一気飲みせずに止まったし青くなったりもないからそれほど心配はないだろうが、ずいずい絡まれるとやっぱり腰が引ける。しかし片手で顎を押さえられて顔を背けられない。痛い。

「きみはいっつもいっつもそうだ」
何が、と思ったものの酔っ払いの言葉にそれほど中身もないだろうからはいはいごめんなと肩に頭をもたせかけてきた背中を叩く。いつになく高い体温とうっすらとぬるい酒気でうろたえる。居間の床に座り込んで俺にくだをまく久藤は正直珍しくてなんかかわいい。酔った目に白い照明がまぶしいのか時折しょぼしょぼとまばたきしていた。明日平気かな、二日酔しなきゃいいけど。

「もう、やだ、なんで…」
ぐちぐちとした声にそういった言葉が混ざってきたのでふと気になって、ん?と声をかける。顔を上げた久藤は至近距離の俺を凝視したまま苛々してきたように険しくなる。そして膝元に置いていた半分以上残った缶を持ち上げて、口をつけた勢いのまま傾けた。これ以上は危ないと思った俺は咄嗟にその缶を払いのけて、口に含まれた酒を奪いに腕を引き寄せる。驚いた久藤から直接温んだ炭酸を引き受け飲み下した。ぴりぴりするけど不味くも苦くもないなと口を離すと、そういうところだよとわなわな怒って目を潤ませる。美味かったって言ったら泣くかなとつい面白がってしまった。

 

◇◇◇


(現状維持/久藤→木野)


「僕が女の子だったら、どうだった?」
「は?…あんま想像できないけど、どうせ美人だろ顔きれいで背高くてきらきらしてて」
「うわー」
「うわーはおそらくこっちだよ、じゃあ俺が女だったら?」
「いける」
「はあ?!よ、予想外の答えがきた…」
「…なんで顔赤いの」
「いや、ちょ、嬉し…くはないくはない恥ずかしい」
「嬉し恥ずかし」
「恋してねーよ!」
「いける?」
「え」
「僕が女だったら」
「…わっかんない、けど、どきどきはすると思う」
「そっか」
「…何だったんだ今の質問」
「さあねー」
「あ、また変な心理テストとかだったら勘弁してくれよ、嫌な結果ばっか出るじゃん」
「…どうだろうねー」

 

◇◇◇


(虚心/可符香→カエレと久藤→木野)


饒舌に嘘をまくしたてる声が好きだった。少し低くて気が高ぶると振れたように掠れる声色で、平然と堂々と荒唐無稽を偽りなく話すのだ。あたかも本当に本当の話かのように。知られざる事実を信じている顔をしながら、その金色の頭の中の世界を話す。雄弁で無限な女の子。あの子の虚心。そうだ、だから、リアリスティックな態度を取るのに夢物語とか都市伝説みたいなものを好きなんだろう。同調か、補給か、信心かまでわからないけど。そしてそれには気付かない様子を見せられたから勘づかないことにしてあげた。やじろべえみたいにクラクラ安定してるあの娘が、何食わぬ顔ずっとしていてほしい。

「他罰的な主張で誠意を要求するくせして、懐に入られたらころっとだまされるし、いろんなものが足りなくて余計で、だからかわいいんですよ」

無人の教室一番前の席、目の前の少しばかり顔立ちの整った案山子に穏やかにそう唱えると、彼は苦笑に頬をゆがめた。かまわないから言う。「同じ物語つきの嘘つきでも大違いだね、だって久藤くん饒舌で朗らかでも全然ほんとうではないんだもの」、君こそね、と目で示したそうな皮肉な笑みは今更だ。茶番に、茶番に、茶番の、探り合いすらもふりみたいな、付き合ったげる真似をしてるのかされてるのかお互いさまないつもの会話。一回転して二回転してそろそろくつろげている。案山子からみると案山子であることの案山子。お腹の中と頭の中にはコルクのぐるぐるとおがくず。くすくすと笑い声だけは止まらないテープのようだ。

「カエレちゃんの楽しかった世界はわかるけれど、木野くんのおもしろい世界は何なんだろうね」
「さあね、具体的なものなのかもわからないし、知らないから」
「久藤くんは木野くんに世界があってほしい?」
「…どうだろうね」
「あなたの世界は?」
「あるの?神様」
「宿直室の、お茶の時間だね」
「そうだね」

怒られちゃうかもしれないけど、おしかけようか。いいね、いいね。全く賛同などしていないし提案すらしていなくて絶対に行くことなどがない、つまり全部そういった話。授業が終わってもちっとも帰らない二人の、していないキャッチボール。君のあの子の話は知らない。シンパシーすらも特にない。面倒ね、面倒ね。

きっと僕ら二人ともここにいたのって迎えに来てほしいからここにいるんだろうね。家に帰るんじゃなくて各々のあちらに帰りたいんだね。ほんとうに帰れる帰っていい帰らせてくれる場所かはまったく別物として。ね、風浦さんに話すと言ったそばから嘘になって虚言になって無意味になって空しくなって消えてしまうからとても嬉しいよありがとう。と久藤くんは笑った。

 

◇◇◇


(後背/久藤木野)


背中がきれいだな、なんてことを思った。知らず猫背気味の自分と違って、木野は立っても座ってもあまり背筋を丸めることがない。ことさらに姿勢や所作が美しいわけじゃないけど、立ち働きがいつもどことなく正しい。自然というか、堂々としつつ肩が張っていない。などと頭の中で評しながら、すぐ目の先で本棚の前に立ちながら整頓作業をしている木野をぼうっと眺める。冬場の学生服から春先の合服になって、ズボンにしまわれずにすとんと落ちた白シャツの裾がちらちらベルトの影を浮かす。どうせいつもの頓狂柄だから見えない方が安全だけど、あの几帳面な同級生に見つかったらきっとことだろう。どのみち違反だ。

「座ってないで手伝えよ」
「ああごめん、でも貧血かも」
「…じゃあ座ってろよ」

あ、この投げやりに返す声音に潜む心配。何でこんなの信じるんだろう、基本根もまっすぐだ。こうやって要所要所だいぶ好きだなあと思うけど、言うと調子に乗るだろうから褒めないようにしている。しかしそれは嬉しさや照れ隠しでウキウキ絡んでくるのがうっとうしいからだけでなく、そういう表情をするのを目の当たりにしたときの自分が嫌だからだ。でもなぜか僕の言葉は不意に喜ばれてしまうから、こういう回避も無意味だけど。

「あ、また迷子」
木野はふと呟いて床に片膝をつくと下の段から一冊抜き出してぱらぱらめくりだした。並べる場所が違う本を見つけたときに迷子と呼びだしたのは僕より大草さんが先だった気もする。何にせよ伝染した言葉選びに少しくすぐったい。俯く木野の首は襟足が丁寧に梳かれてその下にこつこつと骨が浮いている。僕のよりやわらかい髪は散髪されて間もないのか切り口がわかった。開襟シャツは学生服より首元の防御がゆるい。確認の終わった木野がすくりと立ち上がる。

「うわ」
思わずふらっと椅子を立ってその背後からそっと首筋を触った。人肌の温度湿度やなめらかな硬さとびくついた動きまで直接で触れるたび落ち着かない。それなのについそうしてしまう。うなじを覆うように手のひらを軽くのせる。何すんだよ、という苦情が手のひらにも少し伝わる。親指も中指もすれすれで脈を当てない。首は居心地悪そうにしつつもうこわばっていない。自惚れそうだ。

「あったかい」
「…暖とるなよ」

手のひらを外して抱え込むように首を擦り寄せると、完全に力を抜いた体が寄りかかりはせずに委ねる。首と首の熱だ。回した腕の置き所はベルト付近にした。

 

◇◇◇


(甘い淡い/木野←久藤と加賀さん)


午前だけ授業があった午後、静まり返った理科室の、化学の色が染みた長机に座って黙々とケーキを食べている。友達の好きな女の子と二人。悪い夢の場面設定みたいでこのまま世界が滅びそうだけど悲しいかな事実だ。事の発端はあの厄介な教師で、同僚の女性の誕生日と勘違いして浮き足立って買ってきたくせに怒って突き返されたあまり泣いて出奔したから皆追いかけていってしまったのだ、主に嫉妬で。それを見るともなく見届けた僕は残されたホールケーキと奮闘する彼女のご相伴に預かっている。フォークがなかったから割り箸、広げたケーキの箱の端っこが各々の取り皿。戸棚に並んだ標本の瓶が淡々とおかしな光景を眺めているが、話しかけてくれるハチドリはいない。

崩した白いケーキ越しに向かい合う俯いた顔は特に見ない。甘さがわからなくなってきて味もしない粘土を食べている気分になる。まあ胸焼けだ、食が細い者同士で何をやっているのか。本来だと率先して片付けてくれそうな子たちは走っていってしまったし、確実に見かねて手を貸してくれるあいつは既に帰っている。忘れられて傷んでしまうのは勿体ないからと食べ始める少女を見て、気の毒になって箸を伸ばした。というのが建前だ。きっと二人とも対象への哀れみではなく自分の気持ちを紛らわすためにこれを食べている。その詳細は異なるけれど。空ろなバースデイケーキには蝋燭まで添えてあった。年数分かは知らない。本当に馬鹿なんだろうな。

悲しくなかったんです、重たそうに箸を動かしながら加賀さんが言った。先生がこのケーキを買ったのに。糸の切れた人形のような睫だ。僕にとっては結構なことだよ、と静かに返すとまた俯いた。溶けた蝋のようなケーキを飲み込む。結構なことだ。恋の試し書きのようなものがとうに終わっていた、あれは単なる迷い書きだった、待機するもっと甘やかな腕へと落ちて受け止められる。認めるか認めないかだけの話だ、もうじきに。あいつの矢が彼女に刺さった。僕には一生向けられない方の鏃が。めでたいことじゃないか、と思うと同時に目の奥が綿でくるんだ鉛でも詰められたように鈍い。舌先は既に鉛だ。食べたくないものを食べているせい、それだけ。どうして僕があのひとの母への恋の偽者みたいな見せかけのケーキを食べる羽目になったのか。今度めいっぱい毒づいてやろう、あの先生と、とばっちりじみてあいつに。

まだ夕方にもならない午後の光、埃、水道管。見るからにしあわせを頬張るのが下手な少女がもごもごと濁して、すいません、と不可解に告げる。半分も減らないケーキのせいで僕はこのことを五年は忘れない。

 

 

 

 


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