(君の隣/久藤→木野)


  
瞼の線になめらかな頬に、伏せた睫の淡い影に実在しない少女のまぼろしを見た。へんくつそうな眉や時折尖る口元にはそれほどの甘ったるさは感じないというのに、やっぱり活字の追いすぎで目が悪くなっているのがいけない。輪郭は確かに少年らしくくっきりしたものだった。きっとじきに青年になって、面影を残したまま颯爽と歩くんだろう。その頃には僕はどうしているだろうか、何食わぬ顔して足のつかないままでいるだろうか。


 「何だよ、人の顔じろじろ見て」
怪訝そうな声とは裏腹のからかうような笑みで奴は言った。親密をあらわす口角だ。喉の奥でわらう気配がして僕はまた声を発し損ねる。少しおさない顔の周りをきらきらと光が舞う。それが西日に照らされた本の埃なのだとは僕も確かに知っていたんだ。
 「べつに。でも」
ぱたりと本を閉じた感触が手のひらで震える。古い装丁の立てる風が甘くなじんで頬をくすぐった。まっすぐな目が僕の言葉の続きを待っている。あの目はいつでも従順な野良みたいで僕をするすると包み込む。
 「女の子みたいだなって」
 「はあ?顔?」
 「目が、なんとなく」
 「なんだそれ、言われたことねえし」

へんなやつ、と木野が笑った。お前のがよっぽどキレーな顔じゃん。みんな帰ってしまった図書室に軽い声がくるくると回った。めずらしく素直に褒められて困る。つっかかってきたかと思えばなつかれて、世話を焼かれたと思うと頼りかかられる。ふわふわと戸惑うのに慣れたようで慣れない。開いた扉に風が吹き込む。促されたように戯言をすべらす。
 「あれだ、木野が童顔だからだよ」
 「…うっせ、お前自分と比べんなよ」
 「比べてないよ」
 「嘘つけ」
閉館作業はあんまり進まない。木野は缶に入った鉛筆を手遊びにそろえて僕は日誌を書きあぐねている。二人して惜しんでいるんだったらいいなんてことが嫌にも思えなくなってしまった。すっかり馴染んだ腫らした心をなぞってみては笑う。きっとこれはもう、覆る予想すらつかない深みの痺れだった。
 「今に見てろよ、絶対渋い男になるからな」
 「見てなきゃいけないんだ」
 「いいだろ覚悟しとけって、男前なジジイになるぜ」
 「…長いよ」
 「そんぐらいあっという間だって」


けらけら笑う言葉遊びで浮かび上がるくらい嬉しくなってしまう。信仰とはこういう感じなのだろうかと後光みたいな夕日を遮る木野を見た。ずっと隣にいたいと思う一瞬が永遠の意味だそうだった。

 

◇◇◇

 

(こどもの日/久藤と木野と宿直室)

 

小さな手が握る新聞紙の刀で戯れに面を打たれた。ぐわあ、と大仰に畳に倒れ込んでみると、わざとらしいぞとか言いながらも勝ち誇って嬉しそうだ。いつも生意気な袴姿が年相応の顔になっている。しかしチャンバラでいいのか今の子ども、と転がったまま考えていたら久藤がこっちを見て苦笑したから渋々起きる。奴は手元で強そうな武器をくるくる作ってやっていた。テレビの横にケース入りの五月人形、卓の上には小さい鯉のぼりと折り紙の兜と柏餅のパックが載っている。面倒がるようで案外イベント事をきちんとするのが先生らしい。あるいは鎧兜にはしゃぐ交を物陰からそっと激写する小森さんの発案かもしれないが。半分開いた押し入れでデジカメの画面を確認する彼女はかわいい妖怪みたいになっていた。


 「よくやりますねえ君たちも、連休だというのにこんな所で」
こちらをぼんやり眺めて寝そべる先生が言う。着崩した着物で明らかに怠そうな様子からはとても教師には見えない。けれども実際言う通りでなかなか暇な俺たち二人は揃って笑う。
 「いや、どうせどこも人込みだし男だけで行ってもしゃあないですから」
 「交くんも予定なくて退屈だって言ってましたし、だったら丁度いいかなと」
 「退屈がらせて悪かったですね。どうせ幼子の機嫌もとれないつまらない大人です」
 「せんせ、またそんなこと言って拗ねて」
常月さんが先生の背中にとりつくように座ってぶすくれた頬をちょんとつつく。慈しむ顔の和装の少女はかわいい妖怪二号で、物陰からじっとりと一号の視線が痛い。俺たちがいるから出てこられないのが申し訳なくていっそ外で遊んでくるかと考える。実際こじんまりとした宿直室は六人もいると結構狭い。開けた窓から入る爽やかな風が気持ちいい。

 「はい交くん、強い刀」
久藤がにこやかに手渡すと交はおおっと目を輝かせた。見るとその刀はよほど硬そうで長く、厚紙で鍔まで作ってある。俺はげんなりと苦情を告げた。
 「お前な、それで叩かれんのは誰だよ」
 「僕ではないよね」
 「うおい」
俺たちのやりとりが楽しいのか交はけらけら笑っている。笑いごとじゃねえぞ、と注意事項を言おうとしたら交は何か思いついたのか悪戯っぽい目をしてそっと彼の叔父に忍び寄る。そして携えた刀をその細い背中に思いっきり振り下ろした。悲鳴に心をよくして子どもは逃げ去る。俺たちは顔を見合わせてその背中を追い、少女たちは争って先生に寄り添い、意外と笑っていた。

 

◇◇◇

 

(涙/久藤→木野)


  
目が痛いなあと思ったら泣いていた。正確には涙が出ている。瞬きのたびに蛍光灯が苛める図書室でのことだ。日々ひたすら活字を追うことに疲れた眼球が涙腺から抗議しているのかもしれない。それにしても目がちかちか疼いて、読んでいられなくて本を閉じた。ぽとぽと断続的にしずくが膝に落ちる。机に落ちたのを払いのけるように拭う。こうまでして無為のことをしつづける僕、ひいては人間について頭をめぐらせる暇もなくドサリと厚い本の落ちる音がして、顔を向けたら木野だった。今は目だけを動かすのがなかなかつらい。


 「どうしたんだよ」
己の目を疑いながら自分が泣きだしそうな、なかなか複雑な表情をして木野は言った。呆れるような照れるような冷めるような気分だ。しかし実際どう対応しても少し面倒なことが想定されて何と言ったものかちょっと悩む。その間にも僕の頬からはさめざめと涙が落ちていく。余剰生産分を使いきるつもりだろうか、そんなことをする意味があるのかいまひとつわからないのだが。ないと思うけどくさってしまったりするんだろうか。そうだったらそれは恐ろしいから絞りきっておきたい。
 「なあ、おい」
木野はわなと肩をふるわせて、答えあぐねる僕をおもむろに抱き寄せた。そのまま何かあったのであれば力になりたいとかお前がそんなだと調子がくるうというようなことをぽつぽつと続ける。うっかり舞い上がりかけてしまったのでこのまま泣いたふりをしておこうかと思って、けど正当な言い訳が見つからないので迷う。普段からどうにも落涙する機会がないもので少しはしゃいでいる。例の熱感のせいもあった。どさくさにまぎれている後ろめたさも高ぶる。木野の胸は硬くて平たくてしっかりと慈しかった。学生服の黒はいろんなものを遮って目に少しやさしい。木野はこっけいなほど背中をゆっくり叩いて、誤解されたからいよいよ気まずくて言い出せないような気持ちにさせてくれた。焦れるごっこの雨はやまない。ちょうどいいのかもしれないな、と思う。転がるままに弱くなる僕は平静のとおり浮き上がっていた。疑似体験みたいに触れた体温を、しまいこむっていうかもう既に追憶するつもりでいる。本当に悲しいと涙は出ないんだって、だったら僕はどういう捩れ方してまっすぐ伸びちゃったんだろ。言えない軽口を無言で続ける。涙腺はゆるくて未だ戻らない。ただこいつが真にうけて心を痛めるばからしさが嬉しい僕が浅ましいので、ひっそりと笑って一滴本当に泣いた。

 

◇◇◇

 

(追うひと/久藤と木野)


  
僕のすこし後ろからこそこそとこちらを窺う影がある。僕はそれをほうっておくことにして次の時間の用意をした。視線の当たる背中がくすぐったくなって頬がくすりと上がった。何が楽しいのかわからないけどあいつはたびたび僕をつけまわしにくる。すっかり妙に気に入られてしまったみたいだ。なんでかわからないけど、とまた思って、勿体ぶって整頓した机のなかみをもう一度しまう。本当は次の時間もまじめに受ける気はしなかった。なのにこうしているのはポーズというかなんというか、あちらが今度こそ絶対テストの点で勝ってやるなんて言うからかもしれない。そんなことを決意するんだったらこんなことやってないで予習でも復習でもしておけよ、とは少し思う。僕はお前が思うほどやさしい人間じゃないよ、って言ってあげたい気持ち。

 「なあ」
猫がないた。じゃないや、木野がきいた。振り返ってやろうか迷っていたら席に座る肩越しに机を見下ろしてきたらしい。それからグエとうめくように、よくやるよな、とか、いみわかんねえ、みたいなことを言う。悪態は僕あてなのか教師あてなのかつかめない。たぶん開いた教科書にちょうど挟まっていた、抜き打ち小テストの結果を見ての言葉だろうとは推測できた。すぐ背後に気配がするのをうるさく思わないのは久々で、これほどうるさくつっかかってこられるのも久々。上履きの爪先がとんとんと床を叩くたび、毎日真ん中分けにセットしてくる前髪がぴよぴよ揺れてるんではなかろうかと思ってしまう。仮にそんな光景があったってそれほどかわいらしいはずはないんだけど、見たくなってしまうのは何でなんだろう。いつのまにか肩に置かれていた手が適度ぎりぎりなくらいに重みを預けてくることにも少し笑った。

 「教えてあげようか」
だしぬけに振り向いて言うとちょっとだけきょとんとして、どこか嬉しそうな逡巡する顔をして、それからはっと気付いて取り繕うように眉間にしわを寄せた。やっぱり今回は相応にピンチらしい、いつもだったらきっと睨んでくるから。くすくす笑ったら余計にこわい顔をしたけど照れているからなけなしの迫力もない。典型的だなあと思うけど嫌味じゃない。僕はお前が思うほど意地悪とかでもないよ。幼げな雰囲気がゆらめく目の色につられて、右手を伸ばして髪をかきまぜるように撫でてやった。髪を乱されてすごく不服そうに押し黙ったけど、背中も軽くかがめたまま受け入れてるのがかなりおかしくてもっと笑えた。

 

◇◇◇

 

(手紙/久藤←木野)


  
手紙を書こうか、と久藤は言った。そんなもの全く必要じゃない距離と関係のはずだ。怪訝な顔をして顔を上げると、使いもしないレターセットを衝動買いしてしまったと奴は頬を掻く。俺は呆れて小学生の女の子かよと笑った。だから書かせて、と久藤は朗らかに言う。ヤサシー無関心男がどういう風の吹き回しだかと俺はちゃかしたけど、本心ではそこまでそうとも思ってないのは見抜かれている。お前ってゆきみだいふくみたい、と喩えたらげらげら震えて突っ伏されたあの冬からこっち、芯から冷たくは見えなくなっていた。ロールきゃべつみたい、と考えたら腹が減りそうでやめる。持ってきた、と一枚差し出された封筒は気のきいた雑貨のようにシンプルで上品で、いろいろ違う図柄が入っているらしく、俺の趣味ではないけど確かに引力がありそうだなと思った。でもなんか若干女の子じみたチョイスでもある。別にいいけど。少なくとも教室でこっそり回す手紙に使うような安いものではない。お前ぜいたく、と言ったらお前趣味わる、と返された。関係ねえだろ今はと怒ってみせたら笑いをこらえながら筆箱からペンをとる。そのペンも上等そうな重たいやつなので俺は頬杖ついてそれを見守る。高そうなものを持っていてもちぐはぐに見えない久藤は全く高級品だ。人をからかって遊ぼうとしたたかな面をしれっと見せようと何も揺るぎはしない。お前に似合うのだとこれとこれ、と言って久藤は封筒一式を揃えて示す。風車と猫とお菓子の取り合わせがなんとなくくすぐったい。かわいすぎねえ、と苦情にならない苦情を言う。ちなみに加賀さんだとこれ、と夜空と花と川面のセットを作る。思わず手を伸ばしたらあげないよと避けられた。いらねえよと口を曲げる。本当は少し欲しかったけども。それにしてもこいつの上がった口角は不意打ちする。ん、と自分の表現にやや首を傾げる。久藤は手元を見せたくないのか体をひねって後ろの机でさらさらと気取った風でなくペンを動かしだした。俺はなんとなくそわそわ待つ。物語だったり本音だったり独白だったりしたらどうしようかとちょっと思う。どうしようも何もなくただ嬉しくなりそうである。木野国也様と丁寧に宛名まで書いて折り目正しい封筒を奴はよこした。思いのほかすぐにもらえた。平静を装って開いてみると今日の服に対する文句が一行だけ書いてあった。でえい、と投げつける真似だけして振りかぶった手首をそっとポケットにねじこむ俺の隠した高揚を笑いたければ笑え。 

 

◇◇◇
 


(チョコ/久藤←木野)


  
小さな細工もののようにつややかな焦げ茶はひとくちかじるとさらさら溶けていってとても甘かった。これがもっと大きなカタマリでかぶりつくように食えたらいいのにと言ったら、それはさすがにいやになっちゃうよと笑われる。確かに今のひとかじりで既に頬っぺたじゅう甘いので、いやになるかもなあと思う。きれいに弧を描く久藤のくちもとでもカタマリは少しずつ消えていく。どうしてあんなに慎ましく食えるのかと眺めていたら手元のやつがうっかり溶けかけた。慌てて指についた分を舌先で舐めとってもその舌が焦げ茶にぬれている。くちの中が水気を吸うスポンジみたいで、ずっとこのままだったらどうなってしまうかと怖くなる。確かにおいしい、おいしいんだけど、色んなところがまひしたみたいで不安になった。俺は甘いものを食うときもっと好きそうで無感動だったと思うのに、こんなことを考えるのはまがりなりにもこのチョコレートがかなりな値段するからだろうか。何百円相当のひとくちをかみくだきながらコンビニの安い菓子のが気が楽だなあと少しうなだれる。けれどもそれだけではなくて、あるいは目の前でもくもくと食べ進めている奴のせいなのか。貰い物と言って持ってきた本人のくせに俺より無関心に食っている。がり、と香ばしくナッツが砕ける。うつったように同じくして、がりがりと重たい音が続く。俺はそいつを飲み込んで次の一つに手をのばす。簡素な菱形は洋酒の風味がきつくてくらっとした。久藤も指を迷わせて菱形をとる。ぱくりとほうりこむ姿に落ち着かなくなる。今同じ味がしているのだと思うと妙にどきどきした。堪能するふりをして目をしばしば瞑る。箱に収まるどの種類を食べても味は申し分なくうまかった。問題は俺の邪心の方だ。どうしたものかと目線を明後日に据えた俺を久藤が不意にみとめて、しあわせそうな顔をしているねと言って至って幸福そうに目許をゆるめてみせた。確かにこれは、なかなかシアワセなことでもないではない。本当に味は同じなのかと思ってしまったのだ。あほらしい。酔狂と自制とこの前読んだ菓子の歴史についてをぐるぐるかき混ぜて、よっぱらいになったままで甘いか甘くないかわからなくなってきながら星形をひとつ飲んだ。
 


◇◇◇

 

(風邪/久藤→木野)

 


ベッドに仰向けになって白い棒アイスをくわえていた。俺の口に間抜けにささったままもごもご揺れるのを眺める。舐めていたら少しずつ溶けて舌を伝う。支えるくちびるがちょっと凍えて痛い。口の奥に流れ込む甘さが冷たいけど喉はあまり潤わなかった。べとべとでからからにじくじく違和感がして痛い。


 「行儀悪いよ」
久藤が少し向こうからとがめて言った。何か引き出しから探しているような音がする。顔をそちらに向ける気力もないままかすかにうなずくと、密やかにこっちへ歩いて来た。気管に入ったらどうするの、と枕元に手をついてつぶやく。うっすらぼやけた視界ではかすかに心配そうな表情である気がしないでもない。でも俺いま熱あるしアイス食ってるしすごいばかみたいな面してんだろうな、とぼうっと思った。本来こいつにはそんな醜態晒したくないんだけどもうしょうがない。思いの外だるいし痛い。久藤は動かない俺に焦れたのかそっとアイスを引き抜いてしまった。あ、と名残惜しく舌が半溶けのアイスを追う。口の中はまだ冷たく痺れている。白い冷たい左手が口端をぬぐってくれた。ちょっと近付いたきれいな顔はやっぱり無表情だった。

 「ほら、座って食べて」
鈍く痛む頭にひびかないよう渋々起き上がるとすぐに棒を差し出してくれたが、あまり力の入らない腕を上げるのがおっくうなのでそちらを向いて口だけ開けてみた。久藤は一瞬眉をひそめたが黙って食べさせてくれた。学校帰りの見舞いついでにこれを買ってきてくれたのは久藤だ。いくらなんでも甘えすぎかとは思うがバニラアイスの冷たさはやっぱり心地いい。久藤はアイスを左手に持ちかえるとパジャマの肩に上着をかけてくれる。こくりと喉を鳴らしながら目を伏せる俺のまぶたを冷たい手のひらが寸の間覆う。顔は見えなかったがまだ熱いなあとこぼす声は穏やかだ。寝てれば治ると言って朝から一人丸まっていたのでなんか嬉しい。人の情けが身に染みるというやつだ、いやちょっと大袈裟だけど。
 「これ食べたら寝られる?」
うなずいて最後のひとかけをかじって飲み込む。ちゃんと食べたらすぐなくなってしまった。久藤はアイスの棒をゴミ箱に捨ててから湯飲みにさっき沸かしてくれた温かいお茶を注いで、受けとった力ない手を支えて飲ませた。喉が少しの間だけさっぱりと潤う。上着を除けて俺を寝かせて布団を直して冷えピタをはがす。病人にやさしいこいつに何かいいことがありますように、と素直に思って新しい冷えピタを貼ってくれる手に目を細めた。いがいがする喉を押えながら首をめぐらせて口を開くと、久藤はすぐにこちらを見て首をかしげる。

 「ねものがたり」
呆れるほどのかすれ声でそれだけ言ったら了解したように笑った。月がよく見える街の仲良し兄弟がどうなったかはまた後日聞かないといけない。ぐっすり寝入って夕飯時に目を覚ましたころにはもうだいぶすっきりしていた。当然だがもう久藤は帰っていて片付けだけきちんとしてあって、ありがとう何かお礼するとメールを打ったら今度何かおごってくれればいいよと返ってきた。


で、次の日全快して朝の支度のときに机の引き出し開けたら、昔のアルバムが一冊どっか行ってて謎だったって話を学校でしたら久藤がやっぱお礼とかいいからって言ってきた。遠慮される方がむかつくって言ったけど結局うやむやにされた。笑顔が微妙にひきつってた。変なの。

 

◇◇◇

 

(衝動/久藤木野)

 

いつの間にか久藤のテリトリーは俺にとってすごく寛いだ空間になっていた。家の中の物も何も替わってないんだから居心地なんてそう変わりはしないはずなのに、たびたび通う間にだだっ広い家に親しみさえ持ち始めている。これは奴と親密な間柄になれたということなんだろうか。だったらいいな、と俺は機嫌よくなりつつ不敵に見えるべく笑う。その日も俺はリビングのソファには座らず側面のところにだけもたれて、半ば眠るようになって文字を追っていた。たしか日曜日だったはずだ。久藤がお茶を運んできてくれて座ればいいのにと笑う。床が好きなんだよと俺は横目に言う。そこにはふかふかしたラグが敷いてあったからどのみち快適なのだ。家とは大違いなのに、やっぱり懐かしいような変な感じだった。


かちかちと秒針が鳴る。家の中に二人しかいないのも慣れたことだった。久藤ん家に親御さんがいる方がびっくりだというか会ったことがない。それで不都合もなかったし、気を遣わないでいいから楽だった。いよいよ本格的に眠気がしてきて欠伸が出そうで、やりすごすために目を細めて唇を尖らせる。口の端が乾いていて今にも切れそうな風情だったから。すると久藤はお茶を机に置いてやわらかく楽しそうに笑って、おもむろにこちらに膝を寄せて覗きこんできて、まるでそれがあたりまえのように俺の口を軽くついばんだ。チューされた。


俺はあっけにとられて久藤の睫毛の残像が残る目を見開いた。いっぺんに混乱した頭でそれを眠気覚ましのいたずらかと思って、本当に睡魔なんか吹っ飛んでいたけどくるくる回っていたのは血液とよくわからないものだった。あ、と久藤が一拍遅れて呟いて、そのまま真っ白な真顔で固まる。青ざめたのかもしれない。俺の肩を右手で軽くつかんだまま、まばたきもろくにしなくなった。その表情にはやってしまったみたいな色があったので俺はますますわからなくて何とも言えずに唇を閉ざす。ただ自覚されたのはじわじわと赤面していることだった。なぜだ。呆然としながらも嫌な感じが何にもしないことにやっと気づく。それがどういうことなんだかはさっぱりわからない。とりあえず喉が勢いよく乾いたのでお茶がほしい。でも久藤を退けてまでお茶はとれない。どうしよう。困っている内に久藤はゆっくり解凍された。しかし驚くことはまだあった。
 「ごめん」
子供みたいにはっきりしたつたない謝り方で久藤が言って、みるみる下まぶたの縁に涙が盛り上がった。てっきり冗談めかしてこっちをからかいでもすると思っていたのに、予想外の動揺具合だ。そこまでびびられる覚えはないんだけどな。手のひらで覆われた口から、最近寝てなくてとかどうしよう本当にごめんだとかの言葉が震えて出ていく。慌てた俺は訳もわからないまま奴を抱き寄せてあやすように背中をたたいた。久藤はびくりと肩を揺らしてそれをつっぱねたいのかしばらくじたばたもがいていたけど、そのうち諦めたか大人しくなった。けれどまだかたかたと震えてこわばっている。腕の中のびくつく男に何を言うべきか迷って、黙っていてもしょうがないと腹を決めた。

 「怒ってないぞ」
びっくりしただけ。そう告げたが、俺の胸に寄り掛かる頭はかすかに横に振れた。ちがう、と弱々しい声が言う。ちがうのか。何がちがうんだろう。さっきまでいつも通り、あんなに見事な隙のなさを見せていた久藤がこんなにも揺れ動いている。しかも俺のせい。めずらしいものではあるし何でか悪い気もしないけどまったく嬉しくない。胸騒ぎがしてしょうがない。どうしたものか唸った挙句やけになってみた。久藤の肩をつかんで引きはがして覗きこむ。なあ、と呼び掛けると目線を合わせたくないのかうろたえた様子で顔を背けられた。頬に手を伸ばしてこちらに向かせて、細工のきれいな色硝子みたいな目が揺らぐのをまともに見る。途端に頭の中のもやがすっと消えた。かたく閉ざした唇を何か言いたそうな口に押し当てる。衝動だった。さっきのこいつのもそうかな、と不意によぎった。そうしたら振り払うように突き飛ばされて床に背中から転んだ。ふかふかのラグに包まれて痛くない。ただ下唇の真ん中が案の定切れちゃって痛い。何すんだよ、と言おうとしたらずいと跨ぐように乗り上げられた。赤くなった頬で見下ろされる。涙がもう伝い落ちてこぼれていた。身の危険は一切感じない。むしろ新たな衝動が出てきかけて抑える。こんな顔されたらしかたがないという気もした。そういう趣向はないつもりだし、こいつにそんなの考えたこともなかったし、駄目なようにも思うんだけど。


 「なんで」
久藤がほろほろ泣きながら言う。俺が聞きたい。その後はしゃくりあげて言葉になっていなかった。地割れくらいは起きるかもしれない、と失礼なことを考える。珍しいってレベルじゃないし、たじろぐどころの騒ぎじゃない。人の腹を跨いで腕で顔を覆って泣いている久藤はまったくもって弱々しかった。普段のあいつとそっくり同じだけで違う奴なんじゃないのかと思うくらいだ。見ていられなくて、腕を掴んで引っ張ってこちらに倒れ込ませる。崩れるように落ちてきた、重たいけど我慢はできた。俺の肩口に顔をうずめて声も上げない久藤の濡れた頬や熱い首筋が俺の首元にくっついている。俺はだらりとそれを受け入れて視界の隅に跳ねた黒髪を見ながら天井を見上げた。ぴったり重なった体から伝わってくる熱が移って少し落ち着かない。気色わるいとかは全然なくて、やっぱり固いんだなとだけ思う。久藤は何かをうわごとのようにささやき始めた。くるしい、と言ったのだけがわかった。俺はかすかに頷いて、助けてやれるならそうしたいと思った。伝わったんだろうと思う。床に腕をついて体を起こした久藤は俺を見たままぐるぐると渇きが渦巻く目をした。緊張や諸々でごくりと喉を鳴らしたのはどっちだっただろうか。めったになかない泣き虫は落涙したまま着陸して、塩っぱい舌で俺の口を探ってきながら静かにまた泣いた。


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