(凪ぎ/久藤←木野)


奴の心はいつも凪いでいる。いけすかない、と俺は心で呟いて下くちびるを噛み締めた。粘膜が荒れる痛みがして、自分が相当悔しいのだということを思い知る。そうしてこの一連がもはや慣れたことだと思い出す。噛んだ箇所が血の味になるのもなじみなくらいに。内心の沸騰にも気付かずに、あいつは目を伏せて粛々と本を読む。そのまま決して顔は上げない。ずっと好ましかった睫の影まで憎くなった。どうせ何があってもこちらのことなど見やしないのだ。奴はいつでも読んでいる本の文面といつか文章になりうるものと、自分の心に浮かんだことだけを見上げている。だから目線が俺に向いていたとしてもそれは俺を見るふりして何か面白いことを探ろうとしている、だけだ。そしていいネタが拾える相手だと傍にいる。きっとこいつには世の中のすべてが本に集約されて、それを自ら読むことが世界の結果なのだ。

けれどもそのことが喉が渇きでざらざらになって、目の裏がするどい涙で溢れるくらい許しがたい自分はいったい何なんだ。滑稽だな、と一人で思う。ふつふつと煮える腹を抱えながらせめてもの平静を繕って、俺は向かいの席で読みもしない本を開く。頁を繰る手が動くたびに窺ってしまう。醒めては滲む視界を指でこっそり拭い落として、不機嫌に見えるだろう眉間でいっぱいに思う。好きだ好きだ好きだ好きだ。恋愛感情なのか何なのか未だにわからない、おそらく欲情が微かに近い、胃の底をざくざく刺してはうねるくるったような気持ちが暴発しそうだ。俺がよく読む本の甘い恋とはまるで別物の、悪い魔女が魅了する呪いみたいな毒だった。

声をいくら荒げても散らずに色を強めて、奴の一挙一動がことごとく追い詰める。でも奴が見えないと中毒で回りきって仕方ない。沈殿して蒸発していつか俺かこいつをしなせてしまいそうで、俺は今にも叫びたい。ここにいるなすぐに逃げろ俺を絞めろ。こっちを向けこっちを見ろお願い見て。見つめてなくてもいいから、見据えてほしいんだ。


 「うわ、木野、どうしたの」

不意の声に俺の妄念が奴に届いたか声に出したかと思って、俯いていた俺はびくりとした。奴はお構いなしに穏やかに俺をしなせる声で続ける。


「声も上げずにそんなに泣いて、よっぽど感動したの?」

ああ俺泣いてたか、と今更気付いて顔を上げた。質の悪い自家中毒。奴の細い指が涙にふれて心は甘んじて歓喜する。この泣き顔がどの文脈に当てはめられるか知らないが、時間は止まれと願った。 

 

◇◇◇

 

(拘束/久藤→木野)

  
冗談みたいにきれいな顔の奴と何でかよくわからないもののやけに密着していた。奴が仰向けに寝転んだかと思ったら俺まで布団に引き倒されて、背中に腕を回され腰へ交差した踵を乗せるように長い足が巻きついている。正直痛い、あとすごく近い。すぐ真下に彫りのきれいな白い顔があって、眼前というか鼻先の俺を見据えてくる。まるで嫌な気はしなくてただの恥ずかしさとしょうがねえなって諦めが嬉しさに似てるのが居心地悪かった。ちょっと道誤っちゃうから退かせて、なんて言えない。

背中には窓越しの夏の日がぎらぎら当たっていて、俺が遮って奴には影が差す。お前ときどきだいぶ距離感間違うよな、と思いながら複雑な表情をしてみるがあちらは真顔のままだ。こええよ、とも息がかかりそうで喋れない。これで90度起こしたら二か月ぶりの父子の再会だし、このまま水平だとどうにも具合が悪い。隙間があってまだよかった。しかし戸惑ってるうちに背中に回した手でぐいぐい押されて、奴の顔の横についていた肘がぎしっときしむ。このまま支えを崩すとまともに顔がぶつかりそうで、たまらず肩口に位置をずらして額を乗せると耳の真横で舌打ちが響いた。何がしたいんだ。

 「何で嫌そうなの」

心を読んだようなタイミングで久藤が言った。嫌じゃねえけど、とやっとで答える。なんでこれで嫌じゃないのか自分でも不思議だけど。夏の室内はクーラーつけてても人肌が蒸して、薄着の体はもうほぼくっつききってしまった。このまま畳に膝だけつけていたらちょっと痛みそう、でもまだたぶん解放してもらえない。こいつは割とわがままだ。

 「僕のこと好きみたいな顔して、そうじゃないんでしょ」

久藤が悲しそうに言った。いやいや今も恥ずかしいし暑苦しいしめんどいけど喜ぶくらいだぞ。言いたいけど余計に抱きすくめられて言いづらくなった。なんだよお前寂しいの?人気者の切なさってやつか。俺はなんか焦ってきて弱く手をつかまれたような気になってしまった。

 「確かにお前はお前のうわべだけ好きって言う奴をいっぱい知ってるだろうけど、俺はお前のこと厄介でも面倒でも好きだよ」

咳込みそうに苦しいけどなんとか言った。なのにあいつは、ちがう、もういい、と言って手足をすっと離してしまった。息を吹き返す。だらりと寝そべる奴に乗っかる形になって、なのにそのまま動かないでいる俺の顔を奴が持ち上げて覗き込んで、涙ぐんでたから驚いたようだった。ごめん、涙腺弱いわ。 

 

◇◇◇

 

(前髪/木野加賀)

  
さらさらと眉の上くらいまでかかる前髪をそっと撫でるように触れた。少し柔らかくて指通りのいい黒い髪はそれを好きなように扱わせていて、くしゃりと軽く混ぜてみても指を離すとしゅるっと落ちる。当人だけはくすぐったそうな照れているような顔で、遊んでいる俺の指をうかがいたそうに上目遣いをした。とはいえそりゃあ実際には見えていなくて、ただ困った顔でこちらの顔に目線をやりながらも結局なすがままの姿に俺の心臓がズキュンズキュン言ってるだけだ。かわいさで人は簡単にノックアウトされると思う。俺たぶんすごいニヤニヤしてそうだからちょっと不安。頭ひとつほど見下ろす位置に睫の長い黒目がちな瞳があって、ぺたりと座る膝の上にはか細い両手が揃えられていた。

 「髪、やわらかいんだな」
 「そう、でしょうか?」
 「俺かたいから新鮮な感触、なんかきもちいい」

笑んでしまうのをごまかすために口を開くとためらいがちにほの甘い声が返った。他愛なく話を続けながらもう俺はこの子のあらゆるパーツと一挙一動すべてにかわいいときれいと美しいの修飾をつけたくてたまらない。このかわいさについて窓開けて外に叫びたい。飛び下りて道行く人に延々絡みたい。でもこうして隣りにいることは何とも比類なくいとおしいので、俺は笑みくずれてるんだろうなって表情筋のまま加賀の髪を指で梳いている。加賀の部屋は物も少なくてシンプルなのにちょっとした小物とか本棚から生活している感じがして素っ気なくない。そんな中で妙に時間がゆったり流れていて、それでも気がつくと長針は振れているのだ。

 「あの」
 「ん?」
 「わ、わたしもきもちい…です」

語尾が微かに溶けていくような小さな呟きだった。俯いた横髪から赤くなった耳がのぞき、左手はいつしか俺のTシャツの裾をゆるくつまむ。俺はうっかり頭ボカンってなりかけた。上気しきった頬はすぐには引いてくれなくて耳とか声とか色んな機能を麻痺させてからようやく落ち着く。そっか、はい、って小さいやりとりがものすごく照れたままで続く。頭にのせたままの手が汗ばんでないか心配ですっと退けたら加賀がこちらをふいに見上げた。その薄赤い頬に知らず喉を鳴らして細い肩に両手を置く。ぴくりと揺れて首を竦ませながらおずおずと見つめてくる加賀の前髪をもう一度指で挟むように上に払って、あらわになった額に尖らせた唇でそっとキスをした。…ごめん、俺も恥ずかしかったから、気まずい沈黙するのやめようぜ。

 

◇◇◇

 

(目の色/久藤→木野・中学くらい)


「あれ、お前の目きれいな色」って奴が言ったのは確か初夏の、空が高い高い日だったと思う。僕らは当番の机で顔突き合わせて図書室の新着本の配置について考えていて、ノートに視線を落としていた奴が急にこちらを見つめて見つけたように呟いた。既に奴の審美眼を知っていた僕はお前に褒められてもだとかそこを褒められてもだとか思いかけたけれど、それが止まったのは思い直したからじゃなしに中断させられたからだった。

奴はじっと顔を近付けて僕の目を覗いてきた。思わず首を後ろに引いてもまた乗り出して詰めて、縄張り感覚を放棄している距離になった。たじろいだ僕は目線すら逸らしかねて瞬きを繰り返す。黒目が真っ黒で白目が真っ白でアーモンド形にふちどられたつり目は、こちらの灰色がかった目にも同じ機能がついていることを失念しているくらい夢中なように輝いた。睫の一本も判別できる見つめ合いなんて意中の相手とでもそう長くはしてられないはずだろうに、僕はまごつきながらも嫌だとか駄目だとかは感じなかった。ただただ奴の殊更ゆっくりとした瞬きを見ながら、なんというか当時の語彙では恐怖が一番近かったようなものを覚えた。それと同じくして間近くの顔の造作を隅々に見て、皆は僕をかっこいいだとか何だとか持て囃すけど正直こいつの方がそうと言えばそうなんじゃないかなあと思った。だけど自分の胸の中にあるものそれぞれにどうにもしっくりこない違和感をもった。一辺だけ浮き上がったパズルのピース。

そうしたら奴はふと目から好奇心をひっこめてきょとんとした色をのせて、それから「どうしたんだよ久藤、顔赤いぞ」と言って勝ちをひけらかすようにニヤリと意地悪く笑った。僕は虚をつかれたまま目をそらして何か言おうとしてやめた。ああ、ああ、もう。ほんとうに、思い出すだに恥ずかしい。取り出して破いて捨てたいくらい恥ずかしい。でももう一回拾って貼り合わせて飲み込んでしまうんだろう。余計に救いがない。そういうものなんだってことは古今東西あまたの人がきちんと書き残していって一つ肩を叩いた。僕が最初にあきらめたのはきっとあのときだ。しかしなんだってこんな、わけのわからないことになるんだろう?そればかり未だにわからない。晴れ空がよく似合うくせに妙な色ばかり好む僕の一人の友人は、「お前の白目ちょっと青いんだな」って大発見したみたいに言い切ってから軽やかに笑った。

 

◇◇◇

 

(選別/久藤→木野)


木野に出会わなかったらまずもってお目にかかることはなかったであろう品々が木野のベッドの上にとりどりにぶちまけられていた。そこそこ派手な布団がかすむくらいのまがまがしさに僕はため息すら呆れて浮かばなかったけども、選定に忙しい本人はどのみち気にしてないようだ。つまみあげては降ろし肩に当ててみては丸め、いちおう当人の中ではラインがあるのだろう左右に乱雑に振り分けていく。でも僕にはどっちが合格なのかもわからない。ていうか目の前の境界線すらわかんない。分ける気ないのかもしれないくらい、ああほらまた微妙なところに置いた。マイルールすぎる。

真ん中にあぐらをかいて服に埋まっていく木野自身は今日は無地で、気に入りを全部分けたかったからかただ単にうっかりしたのかはまだ知らない。教えてあげようかとも思ったけれど、眉を寄せて真剣に悩む横顔がなんかオモチャを一処に集めようと勤しむ猫か何かみたいにだぶったので面白くなってやめた。冷房は効いているから暑くはなさそう。しかしこうも布地に埋もれているのはまた別の何かを連想するなあと思って、ちょっと考えてああと手を打った。

それからさほど読みもせずに持っていた本を閉じて立ち上がって、ほっとかれていた客は行動を開始する。やっぱり木野の蔵書にはそんなに魅力を感じない。急に自分に寄ってきた僕を怪訝に思ってか見上げてきた顔に笑いかけて、ベッドの端に膝をのせて適当な一枚を掴みあげる。途端にぐちゃぐちゃに転覆した服の山を見て抗議の声をあげかけたのを制するようにふわっとそれをかぶせた。ぱちぱちとタイミングを逸した木野が、頭にたゆたうフリフリひらひらの上着越しにまばたきするのを満足して見つめる。訳も分からなさそうだったのがはっと合点して、わなわなと照れて呆れる顔が好きだ。

 「ごめん、だって飽きちゃって」

木野の持ってる本ってどれも一本調子すぎるよ、僕は悪びれずに言う。真夏の花嫁はくっだらねえと毒づいてため息のままにベールをむしりとった。あ、よかった、と僕は思う。だって僕にはかぶせることはできても外すことはできないもの。ふざけられるライン、こいつにはわからないんだろうな。

 「つうか惜しいな、着物だったら牛若丸だったのに」
 「持ってないじゃない、あってもひどいだろうけど」

だいたい知ってるの、と軽口を叩きながらひっくり返った服の山を並べ直す木野をじっと見ていた。さっきかぶせた服がいつまでも膝の上にあるのを見ていた。

 

◇◇◇

 

(ブリキと花/久藤と木野)

  
「最近までさあ」
「ん?」
「僕、世界に独りでいる気持ちだったんだよね」
「…ほぉん」
「だから、『ブリキ人形はペラペラの書き割りどもに笑いかけながら日々という泥を削り削りしている心持ちでおりました、またそれを削り果たすことを待っていました、油も注さずにつくづく疲れていました』、…ちょっと違うかな」
「………」
「まあいいや、『けれどもある日の往来でわけのわからない花を見ました、その花は自分の格好の意味もわかってるんだかいないんだかでしたが、とかく自信のある高々した花でした』」
「…その花枯れちゃう?」
「枯れない、ぴんぴんしてる」
「よかった」
「『ブリキは書き割りどもの薄っぺらさに疲れて花の横にいることにしました、誇らしげな花には見事に誰も寄ってこないからです。そうとも知らず花は燥いでおりました。その内にブリキも笑っていました。けれどもなんで楽しいのかもわかりませんでしたが、花の様子があまりにおかしいからかと思っていました…』」
「ひどいな」
「ひどいね」

「ブリキは…花は…だめだ、この話延々だらだらしちゃってサゲがないや」
「たまにはいいんじゃねえの」
「そうだね。…『ブリキは』、書き割りも今は嫌じゃない」
「ん?」
「なんでもない」
「そっか?」
「ん」

 

◇◇◇

 

(暑いし/木野久藤木野)


か細くて儚げで守ってあげたい子が好きなの?と久藤が言った。お前も含めるんだったらそうかも、と答えた。向かい合わせのように座っていた足を蹴られた。いてえよ。
暑苦しい教室は日光と蝉の声だけ素通しになっている。俺は後ろ向いて椅子に座って久藤の席に組んだ腕をのせている。例によって先生と女子たちが白熱して社会見学に繰り出してしまったから残された皆はぞろぞろと早々に散った。そっちにもしらけてしまった俺たちはただここに座っている、というか俺が久藤のところに移動してきた。HR中のはずの教室は見事にがらんとしていて、こんなことでいいのかと思う。でもどうせそんなことになるんだから、俺たちはとりあえずチャイムが鳴ったら帰るしかない。

ね、僕はそんなにきゃしゃじゃないし筋張っててまずそうだ。久藤が夏服の袖からすらっと伸びた右腕を見せつけるように机にのせた。手の甲やくるぶし(じゃないけど何だろう)にはぽつりと骨が浮いてて指は節があるけど長くて、爪はきちんと切ってあって透明だった。どうやったら日焼けしないのか彫刻じみて白い。ほら、と軽く掌を握りこんでから裏っ返した手首には緑の静脈がうっすら通って余計に白い。食いたくはないけど旨そう。暑いからそのまま言っちゃって今度は頭をたたかれた。蝉の声ばっかり反響している頭だ。
その右手を軽く掴み返して口許に持っていく。久藤が慌てたのか引っ込もうとするのを寸でで離さない。握る手は思ったよりは熱くて俺よりはつめたい。元からぼうっとしていた頭が陶酔みたいになった。がたり、と久藤が逃げ腰すぎて椅子の背は後ろの机にぎりぎりまでよっかかった。こちらも前屈みで舌をつきだして逃げる指に当てる。かすかな肌の味がする。耳の中には久藤の苦し紛れみたいな雑言が谺した。そっと目で窺うと久藤の汗一つ浮いてなかった頬が真っ赤に上気していた。視線はさっと俺を見ないように上へ下へ明後日にさ迷う。あ、いいかもって思った瞬間に正気が帰ってきてそっと手を離す。

途端に右手を抱え込む久藤にそこまで嫌かって思った。悲しい。罪悪感が来る前に悪ふざけじゃんって言う。暑いからボケた、って。珍しく眉を寄せて久藤が威嚇する。ちゃんと座り直した二人はよそよそしく沈黙した。ごめんなって言ったらいいよって言われた。なかなおり、って手を差し出されて掴んだら噛まれた。なるほど恥ずかしさに叫んだ。チャイムは鳴ってないけど帰ることにする。飛び出た教室から追っ手が来た。

 

◇◇◇

 

(七夕/久藤→木野)


やっぱりと言おうか梅雨時の空に天の川が流れるのはまれで、そもそも都会の真ん中からは外れているといえこの街で見られる星は全く少ないのだった。わかっていただろうに名残惜しげにくちを尖らせる木野を横目に、僕はしゅわしゅわと泡立つコーラの甘さに舌を痛ませながら夜風を見た。木野いわくベランダであるらしい物干しに二人座り込んで宙を向いて、干してあった服は畳まれもせずに部屋の床に積んである。室内の電気も消してしまって薄暗く、外の光や街灯だけが僕らをそこに浮かび上がらせた。けれど本当にこの家の電気ひとつ消したところで何もないのだ。

ついさっき木野がまるっきりの思いつきで言い出した七夕の夜は、願いもひゅるひゅると打ち上がらないで終わりそうだった。これじゃただ涼んだだけじゃないの、と言うには風もぬるいし蚊取線香だって煙たい。そもそも短冊も笹飾りもないんだから、と僕は香料まじりのためいきをする。木野の箪笥の中にだったらそれらの役を勤めるような代物も入っていそうだけど、今背後に広がっている洗濯物だって夜中に見たいかというと遠慮するのに。怖いとか気味悪いわけではないけど、げんなりするのは確かだ。

 「星、なかったな」
木野がむくれた子供のような顔で舌打ちしかねない様子で言った。僕のとは違って緑色に光る缶を傾けて、縁にたまる滴も惜しむように缶の口をなめている。いやしいなあと思ったけど軽く反った薄着の背中が弓みたいで、薄明かりの横顔も好きだったから言うのをやめた。
 「願い事、あった?」
その代わりに言おうと思った茶化しが僕の声じゃなしにまっすぐ響いた。こちらをつと見た木野の顔がコーラのしゅうしゅうと重なって、虚をつかれた僕は笑えたんだかどうだかわからないまま乗り切るでたらめを考える。

 「星ってぱちぱち言いそうじゃない」
木野はきょとんと僕を見ている。恒星とか新星とか置いておいて、きわめて個人的見解で少女趣味チックな論旨にしてみた。瞬きする木野に僕は続ける。
 「それ、透明だから炭酸がよく見えるよ」
投げるだけの繋ぎ方だったが木野は好きなように拾ったようで、缶に光が差し込むように揺らしては覗き込む姿が思惑どおりで安堵する。僕はやっぱり日常に不思議を見させる手品師みたいな扱いらしい。いつでもためらいなくついてこられて怯む。別にいいけど。うやむやになった願望を今のうちに底の方へしまって真っ黒な水を揺らす。叶いませんように、って重ねがけで言った。

 

◇◇◇

 

(おおかみ/久藤→木野)


僕は今まで何回も何回も嘘を言って何回も何回も種明かしをした。奴はいつでもすっかり騙されてくれて、鵜呑みにしたり感動したり恐怖したり後ろめたそうにしたりと面白かった。それをもう何回くりかえしたかわからない。それなのにあいつは尚もちっとも疑わず、僕が天井の辺りをこれ見よがしに凝視するだけで震え上がったり、ありもしないベストセラー本のあらすじを知ったかぶりしたり、架空の美談を思って涙ぐんだりしている。ちょっとおそろしくなってきた。変な服のくせにちょろすぎだ。こんなにころっと丸め込まれてしまっていたら駄目じゃないか、なんて言いたくなる。言ったらきっとお前がいうなとか誰のせいだとか怒られるのだろうけども。しかし、ではあるけれどもやっぱり、僕はくすくす笑いながらついぺてんを重ねてしまっている。うそ話をするのと同じ声色で。

 「…へー!すっげえまじで?!」
 「ふふふ」
 「すっげー!」
 「嘘です」
 「……このやろう」
 「あははは顔真っ赤」
 「うるせえ!」

ざっとこんなところで木野は撃沈して僕はすごく楽しい。ぎゃんぎゃん抗議を言ってくるからすぐに大草さんがやってきてぴしっと注意されるだろう。それを想像してもっと笑う。怒られちゃうから声は立てないように。ところで僕はあいつ以外にあんまり嘘をつかない。奴は僕以外にそれほど騙されない。わざとか、なんて思っちゃうのは、僕がわざとだからに他ならないのだろう。そういうものだ。

 「ねえ木野」
 「…んだよ」

声をかけると木野はぶすっとして疑わしそうに眉を寄せて、けれどもその目がまっすぐきらっと僕を見つめるもので、やっぱりまた喉のあたりで言うのをやめてしまった。だってこれを信じきられてしまったら相当お笑い草だもの。ていうか、まともに受け止められたくなどないんだ。僕は柔いんだ。奴にだけは知られたくないので、だけど言いたくなるときはあるので。だからはいはいって言ってあしらわれる頃にそっとまぎれこませる。ためらうほどに育っていって、言う気になるにはまだ遠い。おおかみ少年になりたいです。僕のくちのなかには今、本心があるかもしれない。

 

◇◇◇

 

(なつはじめ/久藤→木野)


むしあつい、と唸るように言って木野はごろんと仰向けに寝返る。確かに今日はまとわりつくような湿気で何とも不快だけどそれはお前のその服にも責任はあるよねと言いかけてやめる。無駄だからだ。何なのそのビニル紐のファーみたいなのがびっしり生えた半袖は。投げ出された二の腕にぺっとりひっついていて見てるこっちが暑苦しい。ついでにズボンも裾の広がった膝くらいまでのやつでひどい柄だ。
そんなのが自室に上がり込んで畳に人一人くらいのスペース作って寝転んでうだうだ言っているのだから平気な僕もおかしいのかもしれない。積んであった本の丁寧な退け方とか、それを蹴らないように曲げられた膝とかにほだされているのか。どうなんだ。畳んだ布団に軽く腰かけて本を広げたまま傍らの奴を見下ろしてみる。寝そべるから黒い髪が散らばって暑さに眉をひそめて、やましい気持ちがしてそっと目をそらす。これ相手にそれ考えられるってすごいなと自分で思う。顔と性格と言動はともかくとして。

 「あつい」

うわごとのように言うから更にあああってなる。やめてほしい、とついた息は不可解のまま溶けた。木野がごろりと向こうを向く。枕にされていない方の腕がだらりと乗っかっていて、紐がやっぱりむず痒そうなくらい張り付いていたから思わず手を伸ばす。指先に思いがけない冷たさが触れてそっと掴む。木野は床に膝つけた僕を怪訝そうに見て、あつくるしいと一言呟く。それがなんだか僕らに逆さまみたいで面白くなって、布団を足で押しやって空いたスペースに寝転ぶ。どさどさと本の山の崩れた音がした。いま室温どのくらいだろうと茹だりながら思っている。頭おかしいな、と覚めたところが笑う。人間たぶん春と夏と秋と冬はおかしくなる、はずだ。

隣の奴を背中から抱き込むようにしたら申し訳程度にじたばたしてからおとなしくなる。諦めたんじゃなくて委ねたんだろう。ひそめるように笑っておもしろがっている。きっと人が不意に懐いてきた猫のきもち。古い畳はけばだってそれなりに冷たい。木野の体はかたくて、うっとうしいほどあたたかくて汗ばんで冷たい。後ろ頭に額を寄せる。これだけ近接してもじゃれあいでしかないのが反対にいとおしくて、木野の腹の前でぎゅうと手を組んだら同じくらいの熱さの手がそっと乗った。

 

◇◇◇

 

(かせとかけ橋/久藤+可符香)
  

六月の教室は風がよく通る日もやっぱり蒸している。僕は机に伏せて冷たさと苦く湿った感じをむきだしの腕に受けた。この季節はあんまり好きじゃない、本も膨れてぶやぶやになるし傘を携えてはただ歩くしかできない。窓の外に顔を向けると薄曇りがうずまいてこのまま一雨きそうだった。灰色だな、と今更のことを思う。怠さと重みが頭にどんまり乗る。

 「かせになりたくなくてかけはしをかけてこれない」
風浦さんらしき声が唐突に言った。僕は虚をつかれて机の木目に目を見開いてから肺に陰鬱を満たす。軋むような思いで腕を支えながら声のした方を見ると髪留めの少女は今日も超然と笑顔でいた。どうしよう僕は魔法だとか足りないや、とこの前あいつに借りた本みたく思う。これくらい楽だったらいいのにね、と言ったらひたむきな奴は怒るだろうけど。

 「かせをはずさせたくてかけはしをかけてあげたい」
こちらに歩み寄って、軽やかな声は口ずさむように続ける。明るくざわつく教室はそれを気にもとめない。僕は後ろの方に座っている、黒板の前に女の子たちが集ってお喋りしているのが見える。金の髪の子も佇んでいた。あっちにいかなくていいの、とたずねかけてとどまる。あいつとあの子は席にはいないようだ。

 「どうしたの、楽しそうに」
 「ただの言葉遊び」
親近を表すように少女は声をたてて笑う。僕も柔和なように語尾を溶かす。僕らは水面下にも凶器をもたない組み手の型を知っていた。対極にもなりゃしないなんて似た者同士がささめきあう。示された文字を分解するのなんて寸間に終えていた。隠喩も直喩も大好きで、仄めかすのが美徳のようだ。そんな線を引くのも無意味なくらいはぐらかして煙に巻くような人だけど。

 「かぜがふいても、きはそよがない…ああ、巧くないね」
意趣返しでもないことを言うとやっぱり負けん気だと少女はわらった。言われたこともないことだ。窓から吹き込む風が彼女の前髪をなでる。淡く照らすような声が罪の気配もなくたずねる。

 「あの子は橋まで行けると思う?」
 「誰かが向こうにひっぱらなければ」
 「だれかな」
 「さて」
毒の沼はしらじらと静かにたたえる。細かな音に目をやると窓を雨が打っていた。六月の雨なんてデジャブだ、と空々しく思う。

 「橋は渡るまでもつかしら」
 「勿論、あいつはばかだから」
そこで一呼吸置いて願いにも似せて言った。

「真ん中で待ってる」

彼女は仄かに笑うだけだった。

 


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