(ハロウィンナイト/幼少久藤木野)


「トリック・オア・トリート」

がらり、戸の開け放たれた音のあと、まだ声変わりもしていない高らかな声が、無音だったはずの図書室に場違いに響きました。けれど別に彼がたった今、堂々と規律に違反をしたなんてわけでもありません。規則が彼や同じ年頃の皆を丸めて縛る時間はとっくに終わっています。いえ、終わっているからこそ、彼がここに立っているのは基本の約束に反したことにもなるのでしょうが、そんなことをいまさら気にする者もここにはいませんでした。子供の背丈とおつむに見合った、ちいぽけな本棚がぐるりと回るだけのその室内で、電気もつけずに…宵闇はとっくに忍び込んでいたのに、膝を三角にして座っていたもう一人の子供は、やっとのろのろ首をあげました。月明かりにも満たない、目が慣れただけともいえるくらいの薄明かりが、薄暗がりが、窓からかどこからか少年の輪郭をぼやりと浮かばせて沈めています。幼くして早くもととのっている顔や、なんだかよくわからない形を描いている服の襟、袖、むきだしの人形のような棒のような腕と足がさんかくの立体を解いて床にのびて投げてあります。しかし子細はぼうっとしてみえません。闖入者のほうの少年は手に電光のひとつもなく、また続けさせる言葉のふたつもなく、室の隅の棚の陰の窓辺に捜し当てた、壁にこてんと背をあずけた友人の顔を見つめています。頼りない線のするんと流れた、少年のはかない頬や、細い首には、水気の一滴もなく、その名残さえ無いのでした。ええ、暗がりに一人、置き去られたように居る彼は、じっさい膝を抱いてぐすぐすと泣いていた訳ではあらず、途方に暮れたということでも無くて、ただその顔に一切の表情を載せずに、そこにいたのです。そうしてそれは、乱入者や他の誰の命令でもない、単に彼の傷もない疲弊もない茫漠な精神が、なぜだかその場所にすとんと居着いてしまったというだけなのです。白い頬の、アーモンドの目の、くるりと弾んだ黒い髪の、素材が何だかわからないとりあえず暗い場所でみても服の形をしてない衣服の、明確であいまいな要素のすべてがどうしてか感情を全く発さず抱かぬ気色のする、この妙ちきりんのこどもは、あたかも今日という夜に似つかわしい、けれど似合ってくれない、静かすぎたおばけのようでした。

そこへ今しがた現れたほうのこどもは、そこらの子供などと比べものにできない、きっと何人かかっても太刀打ちしきれない利口さを余したこどもでしたので、だまって座り込んでいるほうのこどもが、何のしがらみやあつれきや、のっぴきなんない理由を持ってそこにそうしているわけでは無いということなど、とくと理解していました。彼は、ただただ、急ぐ必要がないから、帰る必要もないから、ここに座っていただけなのです。この一年あまりでしょうか、今はさほど目に映りませんが、形状も色彩もきわめてとんちきなその服飾を提供しつづけている、少年のかなしいおかあさんは、あまりに精神の芸術性がめざめていきすぎたあまり、ここ一月、病院のベッドで薬を食べておとなしく眠むっているのです。彼の家族の人員は、少年自身と母、それだけです。そんなわけで、家には誰もいないのでした。からっぽの家にいてもいなくても変わりありませんから、仕方なくこの図書室にいたのです。暗くなっては文字も消えてしまい読めませんから、欲求に任せて壁に凭れ休むことにしたのです。学校にい続けることにはなんとも思いません。客観的にいえば、彼は周囲のこどもに囃され、器物の投擲を受ける身となっているのですが、愚鈍でも俗物でもない彼の心には今ひとつぴんとこなくて、学校にくることも誰に会うことも、人気者とよばれていた以前とかわらず、苦しみでも楽しみでもないのでした。かれは、基本的に、あまりにも、何を思うこともないこどもでした。けれど、目の前にいる目のかたちの美しいと知っている少年についてだけは、じわりじわりと、その限りでないのでした。むろん美しい彼は、聡明な頭で、その事実だって知っていました。むしろそれをのぞんで、育てていました。痛みも何も感じない顔で顎になげつけられたゴム球を受ける少年をみて、心がひどくおもいがけず軋んだあの日から。いえ、無関心に眺めていた浅瀬の人気者が微かに変容した頃から。おそらく、ずっとずっと。彼と、彼は、等しく、そして、けた違いでした。馬鹿な親と、馬鹿な周囲と、がらんどの心と、知っているかいないかと、思っているかいないかと、痛感したかしないかと、悲しんでいるかいないかと、怒っているかいないかと、逃げられないか逃げないかでした。(美しい子は、いかな賢くとも、自分にそうした見立てがあるのを、ついぞまともに見ませんでした。)

彼と彼は無口にじっと見つめあい、しばらくずうっとそうしていましたが、二人ともそのときの意識からは時間の観念を失っていますから、正確にどれほどの時間かなどわかりません。暗くて文字盤も溶けました。数分かもしれないし、何時間が経過したおそれもあるし、永劫かもしれません。目線はかちりとかみあっています。微かな光が彼らの目の一点にちいさく濡れていて、時折まばたきで遮られます。瞬きを数えれば、たしかに時間は過ぎています。ひたすらふと見上げたまま、ひたすらふと見下ろしたまま、言うとすれば居心地よい方で二人はそうしていました。彼らにはしばしばよくあることでしたし、未来にもよくあることです。やがて、しかし、睫毛のうるわしいこどもは、口を開きました。触発されてか、跳ね髪のこどもも唇を湿らせました。ゆったりと発声されたのは、こんな会話でした。
「お菓子をくれなければ、きみにそれ相応の悪さをするという意味だよ」
「しってる」
意外なことに、冒頭に呼びかけた決まり文句はすぐ隣に置かれていて、ともに忘れてなどいなかったのでした。跳ね髪の子も利発は利発なのです。ただ、その利発さが、余人の理解に少しばかり逸れているだけです。そうしてそのずれは、彼ら二人に、不思議な波長の合致をもたらしています。美しい少年はふと両手をポケットにさしこんで、探りながら口を開けました。いよいよ本題に入るのです。彼が、わざわざ一度帰った家からまた歩いてきてまで、ここに友達を訪ねて来た理由です。これまでにも、ともだちのために、辺りをぐるぐる回って得た人気のない木陰で夢中に耽らない程度の本を読んで時間を潰したり、感情を揺さぶりかけられるような話の糸口をいつでもさがしていたりはしてきました。そうです、彼は初めての友達を、涼しい面差しで、とびっきりたいせつに思っているのです。よって、彼は、街をみていてふっと引き当てた言葉を落としました。

少年は一歩進んで、引き抜いたちいさな手から、いっぱいの小さい飴玉をばらまいて、ともだちの周りに降り注がせて、それでも当てたりはしないようにわざと手前に落ちるように気をつけて、気をつけながら、こう述べました。

「じゃあこれは知っている?この時期だけは君の服も変じゃないよ、今だけはぼくもそんな服着てみてもいいよ、この暗がりとおんなじだ、この夜はおんなじだ、溶け込んでしまうんだよ、紛れてしまえるよ。もっとみんな商業主義者の仕掛けに踊らされて、町中にあふれたらいいのにね。いつしかぜんぶ毒されて、あたりまえにあるような価値観になったらいい。きみが、おかしな蔑んだあつかいじゃなくて、人と競えて勝てて、頭抜けて風変わりで、いかしてかっこいい、ってひとになればいいのにね」

落ち着いた目で、さらりと言ったようでしたが、彼には珍しい、どうにもいいたくて仕方がなくなった言葉だったもので、どんな反応をされるかまで読む余裕がありませんでした。どこをどう回っても友達の姿が見つからず、一人の帰途だった彼は、だからこそ思案に落ちていたのですが、友人がお昼にぼそりとひらめいた、「帰らなければいいのか」という呟きが気にかかり、図書室にはいなかったのに、それでは一体どこに隠れてやり過ごすつもりだろうかと案じて、たまらず先の言葉がいいたくなって、仕方なし、手のかかるあの子を迎えに出るついでに、甘言を浴びさせてやろう、そういうつもりで、ここにきたのです。じわりじわと希有の気恥ずかしさが募ります。反応が待たれます。薄明かりにもわかるほどきょとりと目をしばたたかせた友人は、やがて口をひらきました。
「かっこいい?本当?おれとおなじ服、きてくれるの?くどうが?」

あとこの飴くれるの、ありがとう、あどけない気配がにじむ発言を聞いて、あ、トリックのほうだなしかもわざとでなしに、と明瞭な少年は思いましたが、ぱっとした目の輝きと、声に潜む喜色があんまりにも甘かったため、まあ今日ぐらいはいいと、急いで巻き取られた襟巻きを首にうやうやしく受けながら、ひそやかにぎこちなく喜びで緩む口をちらりとばっちり伺いつつも、これを光栄に思うことにしたのであります。



◇◇◇



(無神論者が聖夜に/久藤木野)


こんこんと雪など降っていない晩だった。こん、こん、とリビングのおおきな窓硝子が鳴った。
 「メリークリスマス」
カーテンを開けると庭に人がいた。窓を開けたら木野が照れたように笑って言った。あるいは寒さのせいで頬が薄ら染まっているのかもしれないが、とにかく上機嫌だ。室内と庭との段差のせいで、こちらをいつもより見上げる形になっている。背中には何んにも背負ってはいない。手ぶらだ。
 「…何しにきたの」
 「さ、サンタさんじゃよ?」
木野は今やってるCMかなんかの真似っぽく言って更に笑いを深めた。元よりそれ気取りなのはわかっていた。確かに赤いには赤い。今日のいでたちは、アルミホイルの表面をくすませてマジックインキで塗りたくったやつを軽くふくらませて急ぎとりどりのモール飾りをつけまくり襟や裾飾りや模様を作ったみたいな丈の長い服だ。奇妙さとしては平素よりマシなほうかもしれない、初めて見るものだった。こいつはこの冬に上着を何枚買う気だろう。そもそもこれ、分類はコートなのだろうか。ダウンなのか。まあジャケットでいいか。たいしてあたたかくなさそうだし、着心地は固そうだ。サンタと呼ぶには材質のやっすいサンタは、外気温のひっくい12月の夜空を背景に、リビングの電灯を浴び暖房された空気を徒に吐き出させながら、冬枯れの庭で得意げに立っている。
 「ああ、まあ、とりあえず、上がりなよ…寒いし、風邪ひいた馬鹿の面倒なんて見ないから」
 「ここでいーぜ」
 「僕がやだよ」
 「すぐ済むから」
木野は意に介さず、ほれ、とポッケに入れていた右拳をつきだした。僕は意図が読めずに、なにかを受けるために掌をさしだしていいものか迷った。ん、と催促される。何様だよ、と思う。しぶしぶ膝をついて手を出す。約束なんかしなかったくせに。来るそぶりすらみせなかったのに。終業式でおわりで別れた、だけだった。聖夜を世間話に。
 「…ほら、クリスマスの、ぬくもり」
その手をぎゅっと握られた。あたたかな手で冷える手が包まれた。聖書になんか載ってない、コーラの広告色のうそ聖人のにせものが、してやったりの顔をする。切れ長な星空の色を三日月に細める。…ああ、そうだね、欲しかったよ。傍らにお前の温度。

 「このやろう。足りるか」
 「は」
 「いいから上がれよ、ケーキも何もあるよ」
そのうえ癪なことに、僕からのプレゼントもだ。目をこんどは瞬かせる木野を見て、間抜けでやっと笑った。



◇◇◇



(薔薇/久藤→木野)


奴は薔薇だと、ねむたく考えた。不格好なくらい大輪で、こぼれおちたような花弁の、不相応なくらい鮮やかに、見えるのにくすんでいる、かすれた薔薇だ。いや、棘がある、などとのラインには全く合致しないのだが。だからもしかすると花の造りが薔薇と似ているだけの花なのかもしれない。あまり詳しいわけではないし、名前と姿が一致する知識のほうが少ないから、何とは呼ばないでおくけれども。子供が花を呼ぶときのようだ、と少し思った。華やかであれば薔薇で、もしくはチューリップなのだ。ともかくは薔薇だ。彼は赤い薔薇だ。桜の開花すら億劫がるほどの自分にはときどきあきれはてるのに、何故か見ていたくなる、ふしぎな花だ。そうして、白い可憐な野菊に恋をする、不憫な薔薇だ。一緒に束ねられてしまっては、野菊はしおれるだろう。寄り添って咲くには、あまりに土が合わないだろう。傍目にはそう思うのに、苦心の結果か案外と風向きは薔薇に向いていた。あるいはあの花は、もしかして白い蝶であったのかもしれない。おびえた蝶が、迷いながら近づいている。なのに薔薇は、追い風にも全く気づかないで、ただ夢想のような甘いイメージを世迷い言し続けている。あきれた薔薇だ。だいじなところで頭が弱いのだ。そう思うのに、疎めないのは、水をやり続けてしまったあわれな僕だからだろう。懸想をしたわけではない。焦がれているわけでもない。ただ芯からほだされてしまっているのだ、あるいは、まぶしさにやられてしまったのか。心ではなく目がと添えておく。薔薇は今日も、夢うつつの目で恋物語を述べている。



◇◇◇



(涙腺/久藤木野)


今日は満月だね、と久藤が言った。俺は生返事をしながら並べられていく昼飯のための茶碗を見ていた。そのからっぽの縁の丸さになにかをおもった。久藤は清潔なエプロンに端正な腕まくりで日差しがきらきらして食器が光る。俺はぼうっと座っているまま物語のたべものみたいにうまそうな食事がととのう。どうしていたらいいかもわからない俺を自然にゆるしてくれている久藤の横顔は穏やかで美しい。きらきらしている。久藤がそこにいるだけでこの世界が。そこにいてくれるだけで俺の視界が。うつろな目をしているかもしれない俺は、それでもそれを嬉しいと思う。なに、晩飯も作ってくれんの、と思い出したかのような変なタイミングできくと、そうしていいんだったらそのつもりだけど、と久藤はまたこちらを少し見て笑って深い鍋から器に野菜をよそって、そうして俺はまた心の底から安心してしまった自分の姿を磨り硝子ごしみたいに思う。こっけいなことだ。かわいそうなことだ。これからこの夢の中みたいな気分でご飯をたべて、片づけぐらいはきっと手伝うから、そしてまた夕飯のために並べられる茶碗を見られるとしたら、満月なんて見なくていいやと俺は思った。



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(はちあわせ/久藤と木野)


めずらしく柔らかそうなものを着ていると思った。何それ、と訊ねると、青山からぶんどった、と鼻先を赤くした木野が言う。じゃあ今ごろ寒がってるんじゃないのと言うと、どうせ古代エジプト専門店あたりで興奮してるから大丈夫だろと返るので笑い合う。冬の街中、大きな商業ビルが立ち並ぶ界隈からすこし外れた通りの、ちょっとした広場か休憩場所のようになったところに偶然出くわしただけの僕らはいた。どちらかといえばコアとかディープな趣味に類するような店が集まったところで、僕は何かおもしろい品揃えの本屋でもないかと思って迷い込んだもののあてが外れてうろうろしていた。木野の連れ二人は確固たる目的でやってきていて、古いゲームやら何やらが目当てらしい。対して服以外にはさしてニッチな趣味もない木野は、早々に二人の熱心な買い物につきあうのに飽きて出てきてしまったのだそうだ。違いも何もわかんねーもん、一時間ぐらいはおもしろがってたけどさあ。不満げな顔で缶のカフェオレをすする。僕はその様子を画のようにぼんやり眺めて、こんな地味な色だって似合うじゃないかと一人思いながら、二人が出てきたら何か食べにいこうよと誘った。



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(明天/久藤木野)


頭の中味だけになって瓶かコンピュータに詰められた僕と、顔とか外見だけになって樹脂で固められた僕とどっちがいい?、陶然とした、くらいの形容をしたい酔うような微笑で奴が言った。いかれたことを言うのはやっぱり春からだよなあとぼんやり思った。床にくずして座る俺の両手首をそれぞれしっかり掴まえているこいつの、突拍子どころか秩序もない質問はナルシスティックじゃなくてその逆の存在否定にむしろ根を張っててそのくせハッピーそうに表層だけふわふわキコシメシてる。ずっと見てたけど見てるまでもなく変なものは飲んでない。ということはつまりこいつの脳内の分泌だから逆にまずいっていう話だ。そういうのと無縁そうにしれっと生きてるように見えるのに頼りなく危なげあるふにゃふにゃした面を惜しげもなく晒すのは疲労してるのか披露してるのか、などと俺が質問に答えるとか以前に親身に悩んでみてても久藤はさっさとどうでもいいのか、俺の手をひっぱったりあやつったり回したりして遊びだした。お前そういうのは浮かれる方が危ないとか前言ってなかったっけ。どうしたことなんだ。何があったんだ。落ち込んでんのの反動なのはわかった。問い質したいのはやまやまだけどとりあえず俺の関節はそっちっかわにまでは曲がらない。けらけら笑う顔が楽しそうに上気してかわいらしく見えるけどアウトだ。つる。腕つる。解放してください。お前の心配をする余裕を持たせてくれ。痛い痛いと悲鳴をあげたらその反応がおもしろかったのか久藤はぱっと俺の腕を離して、たまらず腕を擦る俺を見てけたけたと笑った。ああ痛かった、手をぐっぱーしながらふとひとりごちる。

 「中身とも人形とも、こうやっては遊べねえよな」
だから突拍子もなくわけのわかんないことする生身のお前だけ好きでもいいか。そう答えてみると久藤はうつむいて顔を覆ってしまった。俺は困惑してなぐさめたかったけど、薄い生傷と軽いみみずばれが残った腕をまた奴がしっかり掴んできたから頭を撫でようにも動かせなくて弱る。明るくて清潔で快適な室内で、囚人服みたいな灰色のスウェットを着せられた俺の両手首をつなぐ手錠はあいかわらずかたくて冷たい。



◇◇◇



(蜜柑/久藤木野)


喉がやばい、と眉をしかめてしきりに言うそのひそめた目が自分に決して向けられることのない嫌悪の表情に少し似ていた。僕はそれを眺めるふりをして見つめていて見とれるとも表せない心情でいた。人のいない図書室は声を忍ばせても十分意図が通る。木野は喉元を撫でながら時折焦れたように震わせて、らちがあかないように痛がるまま目を伏せる。風邪?と聞くと、バイト、昨日、声出しすぎた、と少ししゃがれた音で返った。そんで疲れて眠くてもう、と言いながら椅子を抱えるようにだんまり凭れきってしまうので、どうしたものかと思ったまま鞄を探って飴を見つける。変哲もない喉飴で、少しばかり蜜柑の味がきついものだ。これでも食べたら、と手渡すと案外もう気力もないように手をのろのろともたげて受け取る。触れた指が乾いて冷たくて輪郭だけ生ぬるくて、こちらの指先が一瞬すぐ熱かった。

それからしばらくぼんやりと書棚を見回ってみて、さてと席に戻ってみると木野は背もたれの角に後ろ頭を委ねた姿で目を瞑りながらじっと休んでいた。寝たのかもしれない、飴はどうしたのかと少し顔を寄せてみると微かにあたたかく果実の香りがして、飴の粒のかたちが左の頬に軽く浮き出ている。仰向いて眠る間の抜ける一歩手前のはずの寝顔はその線の整っていることがわかりやすいくらい静かなものだった。熟睡するのが早い。人のことをまつげまつげ言うわりに自分だってたやすく影が落ちる。それにつけても危ない、いつはずみで飴がころがって喉に落ちるかもしれない、と声にしたら大仰に響きそうなほど淡々と考える。首の耳の脈がどくどく言わないよう静かに表情を平坦に平然にする。正当化しておこなったと滑稽づけない限りためらわずにおれない結局は出来ないことを、したくてできる気がした。
我に返ることを止めたいように、正しく息をする木野の閉ざした口に指の背の角を這わす。乾いて湿って表面だけかさかさひっかかる。指先はさっき書棚をたどったとき埃にまみれたから、駄目と、言えた。
ぼくはあたまがおかしいから。

座って眠る眼前に膝を曲げて頬に手をそえてそこにつっかえている飴の位置を親指にとらえたままカウントダウン途中で拙速に不時着した。くっつけた。くっついた。くちがひらく。くちでひらく。蜜に思う。蜜柑の味がする。そう擬した化学の味がしている。すっ頓狂な親切に擬して何かしていて、甘い味を吸った舌を吸い撫でるのが主目的に変じたようにそうした。探し当てることを忘れた顔すらできた。甘い酸いかたいやわらかいあついぬるい痺れた。何をやっているんだろうと覚めた顔で思ったまま、ってふりはまだできているのかどうか。瞑り忘れた目が眼前の瞼のふるえを察する。侵入時間は1分もなかった。当然だった。

ついさっき見た眉間の険しさを思い返しながら仮に今突き飛ばされあの顔で生理的嫌悪を言い捨てられたら世界が真っ暗ぐらいぼうぜんとできるのではないかなど考えながらも、寸でで盗むことができた飴をわざとかろりと音を立たせてこちらの頬におさめた。顔を離すと木野はまだうかうかした目を瞬かせて僕を見て口をぬぐうそぶりも吐き捨てる言葉もなかったから、つまらせたら危ないでしょう、と実にいけしゃあしゃあと言ってのけた僕に僕は唾棄する。あの熱の移った飴がまだじわじわと僕の舌をまひさせながら滑って左奥歯に当たった。木野はやっと現状がわかったのかあきれるような恥ずかしいような困惑した表情を浮かべて甘いだけの唾液でうるおわせた口で、お前なあ、それさあ、と歯切れ悪く言って黙った。居心地悪そうに見つめてくる目の色には拒絶も忌避も憎悪も嘲笑すら露ほどもなくて、愛し児のくるいを慈しむかのよな顔で、いいけどって言って、何がいいんだかさっぱりわからせてくれないから、やっぱりその許容はきらいだ。

ついていた膝を伸ばして立ち上がると僕らの周りに蜜柑の香りばかり漂ってやっとむなしい。僕は終わらされたかったんだろうかとやっと思う。思い当たる。けれど終わらせるつもりもなかったんだと思う。かすめて逃げても許されることをわかり直したかった、とか。ぎくしゃくと僕から目をそらしながら、べとつくのか自分でついと舐めずった唇をまたもやかじりたくなる。できたら、やれたら、摘み採れたら、よかったんだ。この期に及んでまだ諦めと意気地のどちらもなく目を伏せて思う。ずるずるこのままでどうなりもしないと嘲って願う。かろり。一回り小さくなった飴が舌先でついと回った。


 「なあ、まだ喉痛い」
 「ああそう」
 「返せよ」

え、と思ったときには腕を引かれて膝がくずおれて、かみつくように吸われた口はぼうぜんと開いていた。
とにかく息が詰まってくるしくてぼうっとして耳の奥がどうどうどうと乱打をして遅れて溶けそうに頬が熱い。不安定な姿勢のまま木野の膝につけた手と落ちたひざはがくりがくりふるえる。見開いた目を切なくすがめる頃にはうなじを支える手が耳まで指で撫でてきてもう永劫に続いてほしがりながら息ができないから止まらなきゃしんでしまった。

ぷは、けほ、とぶざまに息をついて滲む視界には得意げよりもう少し余裕なく笑っている木野がいて、べたつく舌でもう一度くちびるを舐め、なめてきてから、こういうことになるからそういうことすんなよと挑むようにほざいた。僕の中の何かがつかのま、居直った振り切れた気配がして、飴は消えた。






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