象の話



なあ、とつぶやくと、久藤はゆっくりとこちらを見上げた。灰色がかったような黒目がまだ現実に戻りきれていないように瞬く。こいつの目はいつ見たってどうしてもきれいな造りをしていた。久藤の膝にはまだ半分ほど残った分厚い本が乗っていて、俺が声をかけるすぐ前まで心底どっぷり読んでいたらしい。変な優越が出てきそうで、それもなんだか空しかった。久藤本人を相手にするならともかく、俺は昔の全米ベストセラーだか何かと張り合ってどうしようと言うんだろう。


 「これ、読んでくれ」
表紙の褪せた文庫本を差し出すと、久藤はまた何回か瞬きをした。受け取ってちょっと表紙を見ただけで意外そうな顔をするのは、なんというか心外だと言うべきか。でも確かに俺が今読むような類の本とは違うかもしれない。有名なのは有名だけど、恋も冒険も異世界もない、静かできれいでちっともやさしくない童話だから。
 「いいけど、珍しいね。これ僕も好きだよ」
そう笑いながら膝の本を机へ退ける。そうだろうなと思った。なんか好きそうだし、俺よりずっと似合う。それにしてもこいつは口角の上げ方までいちいちやわらかい。おかげで俺は受容されているような感じがしてこそばゆくなる。ぬか喜びだろうな。喜びなのか、まあいいか。
 「小四か小五かな、それぐらいに読んだことあったんだよ。で、さっき見つけて、これお前の声で聞きたいなと思って」
隣の椅子に座りながら言った。俺は何でこいつ相手にこんなこと言ってるんだろうなと思いつつ割と平気だった。ああややこしいな。きっと久藤にはふつうならしそうにないことも平気でさせる能力もある。うらうらした温室でイモムシがチョウチョになってしまうように。それを誰かが勘違いと呼ぶとしてもだ。
…あれ?と思った。久藤が不自然なくらいに黙っている。やっぱ引かれたかな。目をやると、合わせたようなタイミングで手元の本に目線を落とした。少し長めの前髪が額にかかって揺れる。まさかお前照れた?いやそんな訳ないよな。
 「どの話?」
 「象のやつ」
やっぱり平然とした声で尋ねられて、拍子抜けしたような妙な気分で答える。いや別にがっかりすることもないんだけど。あとあんまり考えると今更ちょっと恥ずかしくなってきそうだ。何言っちゃったっけ俺。


久藤は頁を開いて穏やかに朗読を始めた。控えめで巧い演技を聞きながら俺はそっと目を閉じる。それからはもう物語があるだけで、俺は俺と久藤のことを忘れてどこかの村に放り込まれたひとつのカメラになった。




読みたい話、聞きたい声

- end -

2009-1


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