速まる夏に



頭の天辺からこぼれ出る汗に首まで濡らしていくような錯覚がした。四角く大きめに切り抜かれた真っ青な空を仰ぐ。屋根の下ですらこうなのだから、直射と照り返しのきついアスファルトの上はどれだけ厳しいだろう。風のない夏の日は陽炎が揺れ、じりじりとすべてを焦がす。手元で水滴にまみれたレモンティーの缶はそろそろ生温い。匂いばっかり上出来な甘苦いお茶は、いつしかすっかり馴染んだ感情とよく似ていた。
 「暑いな」
隣に佇む木野がぽつりと言う。そうだね、と愚にもつかない返事をしてその横顔を伺う。僕と同じく汗まみれの頬はそれでもどこかなまめかしく僕の目に映った。かすかに上気している為か、黒い湾曲した前髪が気怠そうに影を乗せている為か。彼がぼんやりとさまよわせる目線のおぼつかなさからかもしれない。見苦しさが見当たらないなんていうのはさすがにひいき目だろうけど。夏休み開始直後の今日、暇を持て余す僕らはいつものごとく図書室で出くわし、暑さに追い出されて正面玄関前に佇んでいた。ここならまだ少しは風が入るだろうという目論みは外れ、シャツの襟元を扇いでなんとか外気を送り込む。しかしクーラーの壊れた図書室の蒸し暑さよりはましだ。どうしてうちの学校はよく備品が故障するのだろう。もっと小森さんを崇め敬うべきなのだろうか、主に先生が。


 「ちょっとくれ」
そんなことを考えていたら木野が右手を伸ばしてきたので、はい、と缶を差し出す。これくらいでどぎまぎするようではとても身がもたない。木野の距離感は時折なかなか不躾だ。気を許されているのだろうなという自覚はあるし、たぶんだいぶ好かれている自信もある。ただ彼と僕の間にどうしようもない心情の不一致があるというだけだ。木野は目を細めて喉を鳴らしながらレモンティーを流し込む。好きなんだろうか、喉が渇いていただけだろうか。自販機で買ってくればいいのにとは思いながらも、さらけ出された白い喉元を見るのは役得に感じた。頭がいかれている。男にしては細い長い首とか少し不揃いな襟足とかわずかに覗ける鎖骨のくぼみに滲んだ汗とかを渇望していた。喉仏はアダムが詰まらせた林檎の芯、だったっけ。そんな思惑で友人に凝視されているとは知る由もない木野は缶から口を離してふうと息をついた。僕は陽射しが眩しいからじゃなくて目をそらした。かすかに漂う香りと自分の喉の残り香でなんだか所在がなくなる。一旦意識しちゃうともう駄目なんだ。レモンティーじゃなくて、匂いが強くないものを買えばよかった。我ながら自分が気色悪い瞬間だ。
 「飲みたいなら全部飲んじゃっていいよ、多かったから」
 「え、いいのか?」
やった、と屈託なく言う木野に腹の底で欲求が渦を巻き、あの缶が手元に返らずごみ箱へ放られるだろうことへの安堵も伴う。そんなことすらも考えないではいられない自分の青さを笑いながら、慣れた手順でそれらを追いやった僕は上っ面で微笑む。全く面倒なことだ。こんなじっとりした熱情、もっと照らされてさっさと干からびてほしい。ぶわ、と熱気を含んだ風が僕らを包む。木野はうわあと言って辟易顔で笑った。
 「これじゃ図書室の方がましだったかもな」
 「でもあっちはあっちで嫌だな、サウナみたいになるし」
 「あー、にしても暑い…」
そう呻きながら木野は勢いよくシャツの腹で扇ぎだした。平たくて薄い腹がちらちら覗く。よく食べるのに女の子達が怒り出すくらい腰回りが細い。まだあまり陽射しにさらされていない肌は白い。僕は平然とした顔ができているかふと心配になって、汗を拭うふりをして頬を触った。触らなければよかったと思った。まばたきのたびにちかちか明滅する。何の白さだろうか、さっぱりわからない。
 「そういやさ、初チューはレモン味って誰が言い出したんだろうな」
少女チックすぎねえ?と木野は朗らかに言う。今このタイミングでそんなことを言い出すお前に感服するよと僕は思った。世間一般なら他愛ない連想ゲームでも個人的に最悪だ。さりげなく俯きながらさあ誰だろうねと返す。今度は右手で押さえた額からじわじわと湯気が立つ錯覚。勘弁してほしい。いつから僕はこんなに駄目になったんだろう。どうして僕はこいつに恋をしてるんだろう。
 「甘い設定だったら別にメロンでもリンゴでもいいじゃん。そもそもそんな甘酸っぱいもんか?」
 「え、したことあるの?」
 「…ねーよ、悪いかよ」
いや悪いわけじゃないけど、と僕は言葉を濁した。案外というか順当に木野は奥手だ。そしてちょっとピュア、あるいはメルヘンだ。それを言うなら別に僕もそれほど恋愛経験があるわけじゃないけどそれは単に興味がなかっただけで、こいつはたぶん純情だからそんな機会がなかったんだと思う。そっと盗み見た罰の悪そうな顔にくらくらする。そんな感想を普通に抱く自分にも目眩がする。どこで道を誤ったのか、最初からかもしれない。
 「どーせ久藤はあるんだろ、どんなのか教えろよ」
ずずいと睨み付けてくる目から必死に視線を背けた。露骨に逃げたら怒るだろうから我慢した。ないですないです、と言おうとしたけどそれはそれで怪しがられて駄目だろうなと推測できる。ていうか本当に予想通りな思考回路だなこの子は。もしもしたことがあったとしてどう教えたらいいのかを教えてください。気付けば体温が届くんじゃないかというくらい間近に跳ねた前髪の正面顔がある。こういうときに目をそらさないのが木野だ。本当やめて、と呻きそうになってこらえた。茹った頭が暴走寸前だ。今すぐ逃げたい。ていうかもうなんか泣きそうなんだけど暑いと許容量減るよね。
 「黙ってないでなんとか言えよ」
 「なんとか。…きゃあやめて顔が近い」
 「…芳賀とかならともかく、お前にそういう棒読みされるとむかつくどころか逆に謝りたくなってくんな」
 「だったら退いて…」
本当に追い込まれてるから、と思いながら僕はため息を飲んだ。目をつぶったらつぶったで気配が近くて嫌だった。なんなんだろうこれは。前世の罰ゲームか何かかもしれない。どんなカルマを背負ってるんだろう僕は。
 「あれ、お前なんか顔赤くね?」
 「は?そう?暑いからじゃない?」
今気づいたのかっていうか気づくなよ。本音は出さないようにしてそれとなく距離をあける。はー暑い暑い、とわざとらしく手で顔を扇ぐ。意外と動転しているなあ僕は、と冷静な方の頭で思った。
 「えっ」
すると木野は何を思ったかいきなり手をのばしてきた。わかりやすいくせにたまに読めない。思わずびくりとこわばった頬に湿って熱くて少しつめたい手が触れる。ああそうか缶を持ってたから濡れてるんだ。ところで玄関で何やってんの僕らは。
 「熱いな、やっぱこれ飲んどけば?」
 「いや、いいよもう木野にあげたんだし」
 「いいから飲めって、ぶっ倒れたお前運ぶのやだぞ俺」
手を離してすぐ缶を頬に押し当てられてしぶしぶ受け取る。こんなときどんな顔をすればいいのやらだ。さっきより輪をかけてぬるいレモンティーは意識しなければ平気で飲みきれた。ただまた一つ絶対に他言できない「お話」が脳内に増えただけだ。ときどき夢に出てきてうなされるやつだ。もう何作目だろう。一文字残さず抹消したい。けど頭を打つのは痛そうだから嫌。
 「そろそろ移動するか、ここ暑すぎ」
 「だね…早く電器屋さん来るといいのにね」
 「お前暑さに弱いの」
 「結構、夏場は食欲ないし、やせるし」
 「じゃあ今日うち来る?」
 「行く…じゃあって何」
だらだら並んで歩きだしたところでふと引っかかって聞き返す。急に立ち止まった上靴が床をきゅっと鳴らした。木野は会話の組み立て方がいきなりだ。人のことは言えないけど。
 「夏バテ対策で、うち来て何か作って食おうぜって。あ、今日母さんいないから」
そしてさらっと人の導火線に火をつける。僕はそれを慌てて踏み消す。ずいぶんベタな誘い文句みたいなことを言われたけどたぶん気のせい。僕の心のやわらかい所がぎりって言ったけど気のせい。勘弁してください。
 「つか二人で今度どっか行こうぜ、泊まりがけでさあ」
さっきのがとどめかと思ったら追い打ちがあった。笑顔でそういうこと言うお前には今晩好きな子の浴衣姿が夢に出てくる呪いをかける。具体的に言うと加賀さんが白地に青い花の可憐な装いではにかんでる姿です。どうだつらいだろう。しかしそれでも僕は、何かのせつない因果で性懲りもなく肯いてしまう悲しい生き物なのでした。




夏の魔物はかわいく笑う

- end -

2009-08


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