手首



授業が終わってそう間もなく行ったのに図書室の戸が開いていて、戸口から覗くと木野がいた。珍しい、いつもはたいてい僕が先に来るのに。木野は奥の方の長テーブルの端の席でうつむいている。本を読んでいる様子ではない。何をしているのだろうと思ってそろりと部屋へ入って本棚の陰に静かに向かう。横顔は袖をまくった手首を神妙に見つめていて、僕は声をかけるタイミングをつかみそこねる。僕ら二人しかいない図書室はひっそり息をひそめていた。木野は全く僕には気づいていない様子でしばらく青い血管に起伏のない目線を落として、やがて何を思ったのか腕を口元へ寄せてそこへ噛みついた。僕は少し目を見開いた。吸い上げたのか口を離すと赤い痕が残っていて、木野はやっぱりまじめくさった顔をしてそこをちろりと舐めた。研究でもしてるみたいな目だった。しかしまあやっぱりというか、仕様もないことのようだ。ちょっとだけ心配してしまった自分の良心が悲しい。


 「何してるの」
無造作に声をかけると、ばからしい実験をしていた少年は飛び上がりそうに驚いてこっちを見上げた。なんて言ってよそよそしい描写をするときは主人公が相手を遠くに思っているのだとか国語で教わったけど、本当にこういう気持ちでそういう言い方をするものだとは思わなかった。戻して木野はつり目をまん丸く開けてから思い出したように狼狽してついでに赤くなった。口が間抜けに開閉するのを見るととっさには返事ができないくらいらしい。べただけど金魚みたい。
 「見られて恥ずかしがるぐらいならこんな所でそんなこと試さないでよ」
 「……ま、魔が差したんだよ」
しごく真っ当にそう言うと、ああとかぐうとかかすかに呻いてから木野は答えた。差しすぎだろう、と僕は思った。くだらないことでよかったというような気もするけど。言ってはやらないけども。手首とかまったくもってそれらしいじゃない。これ見よがしにため息をつくと木野はばつの悪そうというか穴掘って逃げたいというかそんな顔をした。だったら本当にこんな所で魔に差されてないで自室で存分にやってくれと言いたい限りだ。ほら見ろ、やけに内装の豪勢な広い図書室がなんだかむなしいじゃないか。

 「やめろ、そんな目で俺を見るな!」
 「こういう状況で言っちゃいそうな台詞第一位だね」
しれっと返してみたら頭を抱えてしまったので歩み寄って覗き込んでみると、木野は案の定すばやく顔を上げて例の右手首を左手で隠そうとした。なので僕はその両手をそれぞれ掴んで引き剥がした。僕の方が非力だけど僕の方が力をこめるのにためらわない。変な話。木野は僕から目をそらしながらいよいよ湯気の出そうな顔で口をつぐむ。たかだかこの程度のことを見られたくらいでここまで照れるものなのかと僕は舌を巻く。ちなみに至近距離だ。それはまあ当たり前なんだけど。そうなんだけど。
 「…なん、何か喋れよ。ひどいこと言われた方がマシだよもはや」
 「言いたいことはいろいろあるけど、何考えてたかは一目瞭然だからね」
 「うっわあもう…お前まじ性格悪い」
 「どうも」

今にも泣きそうな木野に生返事をして、目の前に掴みあげた腕にひとつだけ赤く落ちた点をしげしげと眺めた。わかりやすすぎるくらいにたあいない練習だった。黒い袖に包まれた華奢というほどでもないけど細い腕と、あの子の白くてたおやかな首筋はあまり重ならない。確実に言えることはこんな未経験くさい練習をしてる間は実践からとてもとてもほど遠いということだ。ていうかそもそも成就すらしてないうちから何やってんだろうこいつ。
 「馬鹿じゃないの」
 「ひどっ!」
 「ひどいこと言えって言うから」
というよりは思ったことをそのまま言ってしまった感じがするが気にしない。だってこいつ馬鹿だもの。振り払えばいいのにそうしない。はぐらかせばいいのにそうしない。ばーか。木野は両手首を捕まれたまま熱そうな頬でしょげている。木野の肌から僕の手のひらへじわじわと体温が伝わる。ちょっとやばい気がして手を離した。支えを失った両腕がずるりと落ちて机の上にぶつかる。木野は驚いておわっと声を上げた。いきなり離すなよびっくりするだろ、とこちらを睨む。知るか。


 「で、知りたいことはわかったの?」
 「…やなやつ」
 「もう聞いた。で、わかったの、どうなの」
微笑みながらしつこく問いただすと木野は歯がみしながら黙った。あからさまに見下していますというポーズで笑われるのが嫌いだということはちゃんと知っている。そして僕が何をやってもたぶん少々のことではあんまり嫌わないということも知っている。僕は大概ずるくてそして臆病だ。だって実はこれは見下しているんじゃなくて息が上がっているけれどそれは隠したいのですという顔なのだから。
 「…まだ、これじゃ、たぶんわかんない」
半ば自棄になったのかしどろもどろといった様子で要領を得ない答えが返ってきた。目線で続きを促す。木野はちらっとだけこちらを見上げてうつむいた。アーモンド型のくっきりしたつり目が弱った様子で伏せられる。スエゼン、という四文字が湧いて出た。よくないよくない。僕がお膳だと思ってしまうものはただの男だ。たべられそうもないごちそう、と言うにはまだ理知が邪魔をする。そもそも食べるところはないんだ。

 「…これ読んで、跡ってどんな感じなのか、見たくなって」
そう言って指さすのを見て僕はやっと机に伏せてあった本に注意が行った。普段ならありえないことなんだけど、近頃ようやく僕はそうやってしばしば不如意になる自分に慣れてきたような気がする。わからなかった文章がわかるように思える。遠かった心情が近いように思える。もっと清らかできれいな話だったらよかったのに、実際はどろどろした俗な話だから笑える。ともあれ件の文庫本の表紙にはやっぱりふしだらっぽい題名があった。読んだことがなかったから棚の奥から発掘してきたようなやつなんだろう。内容如何に関わらず後で読もう。昔の艶っぽい小説は独特でおもしろい。
 「跡はついたでしょう?」
 「何日も残るって書いてあったんだよ、そんで、そんなに保つものなのかって」
 「何日も」
 「…あんまり長かったら、支障があるかもしれないだろ、だからだよ」
そこまで聞いてねえよと僕は思った。もじもじ言ってるけどさっぱりかわいくない。いや内容的にはかわいいものなんだろうけどでもやっぱりかわいくない。何て言えばいいのかなこの感じ、カマトトでもないしマセガキに近いだろうか。ていうかあれか、好きな子の見たくなかった一面なんでしょうかこれは。わかってるけどねわかってるんだけどさ。がっくり疲れて溜息をついたのに木野はまたきいきいわめきそうな顔になった。こっちの気持ちにもなれ。なってほしくはない。複雑な男心を男に抱いて何やってんだか乾いた笑い、とやったらまた誤解されそうなのであきれた顔を作って見せた。
 「お前が破廉恥だということはわかりました」
 「んなっ!!」
距離を置きたいことを示す敬語で率直な感想を言うと、ショックを受けたようで青ざめたようなまだ赤いような妙な顔をした。百面相だ。正直かわいい。ほら見ろお前の影響でたがが外れてきた。ああああもう。比較的に純粋な欲求で脳がかきみだされている。片手で目を覆ってゆっくり十秒数えてから手を離して木野を見た。身の置き所がなさそうに目線をさまよわせている。ああでも大丈夫べつにさっきほどぐっと来ない。やれやれ、とこっそり落ち着いた息を整えた。


 「何で、よりにもよってお前に見られたかな…」

うつむいて頬染めて唇を噛みながらそんなことを言われてしまってとどめを刺された。僕は能面みたいになっているだろう顔で木野の目の前に迫った。身構えた様子でこちらを見上げるのにほほえみかける。案の定うるさくわめき散らしながら顔を真っ赤にして嫌がったけど遠慮なく、髪型がぐっしゃぐしゃになるまで頭をなで回して痛いくらい抱きしめてかわいいかわいいと言ってあげました。これぐらいで済んでありがたく思え。僕の回路がこっちに電源入る仕組みでよかった。ともあれ、最高の嫌がらせにとどまったことを祈る。




情報処理できない

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2010-02


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