楽園の国



楽園は終わった。林檎も蛇も出てこなかったけど、誰が何をしたわけでもないけど、ただただ、魔法が切れたように、契約が更新されなかったように、もう大丈夫でしょうと薬の投与がきりあげられたかのように、終わった。悲しくも幸せでもない、ただそれだけの話だった。



そうして僕は、中途半端な語り部から、バイトのような聖職者になった。前任がちょうど島を後にしたからという、それまでの人物配置とまるで変わらない適当さで、まだ話が続いているみたいな感じがした。しかし終わっていた。波の音がするばかりの島だ。僕は幼い日に聞き流したわりに案外縛られていた偏った教義を忘れ去り、それなりに本家本元に近しい解釈だけれど穏やかで緩い、この島の祈りをひさびさに唱えている。仮装のような薄っぺらい神父だけれど、おおらかな島民たちは浮き浮きと笑い、聖書の物語をあたたかく話すだけの男でも、充分迎えてくれた。暫くはまたここに居るのだと思う。船着き場と晴れ空、潮の香りとあたたかな森の気配を纏う、この島に。



実は、ここの土地も半分がた「先生」の家の所有だと聞いたものの、それは特段に効力を持たされない権利であった。あの酔狂な家が突飛な慈善をする領域は子供らを集める「家」程度に限られて、あとは長閑で温暖な閉鎖の場所でしかない。与えて、誰も縛らない。あの場所と同じく。けれど、あれは、「学校」はあの場所にあった空間でしか作れない舞台だったし、ゆえに彼女らはもう「生徒」ではない。女の子たちは、まあもう女の人たちであるけれど、そう呼んでおこう、女の子たちは、からりとした笑顔で自らの足で次々にここを発っていった。基本的に、根本的に、すべては既に自由だった。よるべない者以外は、みな自由であるのだ。巫女もマリアも、毒婦も慈母も、悪人も殺人鬼も居た、あの、愉快な、つましい小劇場は、仕舞ってしまった。足を思い出した幽霊は、息を吹き返して生き返す。これから、どうするのか、きっと心配のいらない顔で、きりりとスカートを翻して、退場。



女の子は、強いなあ、と、腑抜けた顔で茶を啜る。新しい「学校」は少ない幼子たちの城であり、僕はそこの隣人のような者となり、子供たちの話をちゃんと聞いては、追いかけっこをしたりして暮らしている。飽きたぐらいの馴染みの「先生」は、相も変わらずいらんことを吹き込んで、元気である。今は夕方で、もう下校後だけど、今日はまた島の裏に遠征でもしているのか、子供らも傍迷惑な教員も、この寂れた教会の茶飲み部屋には突撃してこなくて、気が楽だ。あ、いや、子供らは良いのだ。どちらかといえばついてこないでほしいというだけで。どだい別段、あの人を親しくも近しくも思わないし、全く慕わしく無い僕みたいなのが、一番最後まで近所にのほほん暮らしているというのも不思議なものだが。女の子たちは、あれは、「卒業」したのだろうか。そこのところは門外だから、何も知るところがないんだけど。つい最近まで滞在していた、島にひっそり因縁のある金髪の女の子も、いつまでいるのと尋ねたら噛みつくように吠えて、次の朝、別に先生に挨拶するでもなく僕に手を振って、じゃあな、あとはからりとした顔で船に乗った。色んな顔が混ざってただ一つの顔を抽出したみたいな姿だった。何になるかは知らないけど、何にでもなれそうな人だ。淡い色のガーベラが教会の前に置き残してあって、心の内で微笑んだのだ、確か、何かとじゃれあって居たのだものなあと。あの娘で最後だ。連絡先、当たり前みたいに誰からも聞かないまま。いつかまたここに来ることも、あるのだろうと思えたし、永劫ないともいえるのだ。風の噂に知ることは半分約束されているけど。



鳴る用件のほぼ消えた携帯電話に、消え残ったように一つ、鈴がついている。何番目かに数人で旅行するように出発した中の、小さな小さな声は、握った手のひらを僕の手のひらにのせてから、お前もげんきに、って真っ直ぐな目で覗いて励ましていった。ああ、ばれている。舌を出すように笑ったつもりで、そうだね元気で、と鈴の鳴る手を振った僕に、ひとつ真剣に頷いた、あとは振り向かない小さな背中。その数日あと、握手をして頬をひとつ撫でて、子を抱く仏教の女神みたいに黙って微笑んだあの人、やわらかなポニーテール。それからすぐ、一人で、驚くほど真っ直ぐな背中で、体に気をつけてと涼やかに優しい声で言ってから、浅く美しい見たことのないお辞儀をした、清らかな、あの、いちばんうまれかわったみたいなあの娘。女の子たちは、みんな軽やかで、楽しそうで、笑っていた。そうして、僕にまで、多かれ少なかれ一つ、お礼を、言っていったのだ。



ぼやけた記憶は荒唐無稽な脚本で、この顛末はあまりに天真爛漫でもあった。みんな、あんなに強そうで、やさしい人だっただろうか。僕はぼんやりと思い返した。物語の中でみたら茶化していたかもしれない言動は、圧倒的な迫力と慈愛で僕の胸に染み入った。それでも、まあ、「治り」はしなかったんだけど。でもみんな、みんな、僕は、見る役目だったはずなのに、みんなのことを、つと、見もしていなかったのかもしれない男だけれど、それでも皆おかまいなしに僕の背中を叩いていってくれて、僕は、ほんとうに、しっかりと、嬉しかったんです。



紅茶の水面に映った僕の目を見る。ゆるやかに感極まって、胸をあたたかくしているはずの男は、あまりに無感動な顔をして、つまらなさそうに虚無を見ていた。 空洞なんだ。



まあ、でも、平たくいえば戻ったのだ。役者の、いつもにこやかに平然と少し底知れない気配のするあの彼から、見るからに浅瀬を歩く鉄面皮の僕に。自動的に表情とふるまいをつけていただけで、本質はそう変わらないのだが、むろん記憶もあるのだが、その境目もなにも判然としなくて、ただぷつりと表情だけは浮かばない男になった。憑依を、していたのかもしれないし、そうでもないかもしれない。あいまいなものの全てが許されるここでは、別に僕の表情がなくともどうということはないし、それでも、僕が感情をもとめて密かにもがくことも禁じられたりはしないのだった。事実はひとつ、一番まともみたいにしていた僕が、実は最後まで「治って」いない。経過は、良好なんだ。あとは、外すだけだ。



開けた窓からの風がつめたくなってきた。ふと顔をあげてのろのろと窓辺に歩く。見るからに冷えた紅茶と、スピンの進まない文庫本、読みかけの本、読んだっきりの本。魔法がとけると、こんなものなのだ。困ることはなくて、皆が自然で、風変わりにぼんやりした若い神父のことを、昔なじみのこども、あれで愛想はあるねえと、了解してくれている。それでも、僕は待っていた。静かに待っていた。ひとかけらなくしたまま魔法で隠してみた、今でも問題なく動いている、ぶりきの破片を拾えることを、何だったかに、ぴんとくることを。



気づけばまた、開けっ放しの窓に手をかけてあらぬほうを向いて立ち呆けていた。ふるりと震えて、思い直す。一人でいるときに、きびきび動けたことのない癖が、悪化している。そとづらだけは良いくせに。これはきっと、病じみたものと、特性と、本質とが、奇妙に入り交じった、正常の範囲なのだろう。僕がひとり、やみくもに、直らないなあ、と、思っているだけの話で。明日の予定をたぐりながら、夕飯の支度を考えながら、窓の外に目をめぐらす。狭い砂浜と色の褪せる夕方の海が見える。船が来る。見るともなく見ている。桟橋につく。誰か降りる。肩が、ふるえる。目が開いてしまって、急いで凝らした。



身を乗り出した。寒いぐらいにつめたい風が、耳を射る。白昼夢は終わったと告げてくる。誰かが、箸置きぐらいのおおきさで見えて、ふと顔をあげ、ぶんぶんと大きく手を振っている。てらいなく明るい所作をする。あれは、ぜったいに、笑っている。尖塔の十字架を目印に、真っ黒い僕を見つけていた。僕は、その夕暮れに目立つ遠目に判る風変わりな色柄でなくっても、きっと、あいつを見つけていた。身を落ち着ける場所に、海側の室を選んだ朧な理由がよみがえる。落ちるなよ、おおげさに口をぱくぱく開くのが、そこまで見えもしないはずなのに、わかった。それが少し鬱陶しくって、いらだって、嬉しいと、強くそう思った。本当にとても思った。ぎゅうと、胸がすくんでふるえて、わなわなと熱くて、思わず開いた口が、わあと意味もなく届かない声をあげた。遅い、と、言いたかったのかもしれないし、わからない。気づけば、遠心力を感じながら部屋を急旋回し、教会の堅い階段を飛ばす勢いで駆け下りていた。こんな加速、なかなかしない。ひゅうひゅうと息をする音で頭が満ちている。足がもつれないように。会う前に死なないように。



「自由登校」になってすぐ、あまり奴を見かけなくなった。ざわついた予感がしても、終わりの気配の前に、支度をする必要があって、家まではおとずれなかった。おびえてはない。「卒業」の数日前、僕の前に姿を見せて、満ち足りた気配で奴は笑った。「卒業式」の日、一度すれ違って、そしてふっつりと、どこかにいった。あいつはもともと異分子だった。清々しく、一足先に、消えていたのだ。ぽかんと何か失った感じを覚えた。幼い日、不遇の日、救いない過去の、僕の友人。思いがけず再会した、会いたかったかもしれない、あまりに変わったくせにきっと別人のようにまるで一緒のままの、僕の、前世からのともだち。



僕はずっとずっとずっとあの男を待っていた。
なぜかずっとずっとずっとあの男を待っていた。



重たい扉の前までたどり着いた。開く。水平線、まばゆい夕日の残り火をじかに食らう。目を眇める。光の中で、平凡な田舎の島の道路を、一人真ん中に歩いて、木野が、肩で息をする僕に、くつくつと笑いながら、ゆるやかな駆け足で飛んで来る。夕日より星空よりまぶしい色合いの気の違った柄の、形だけフォーマルに近しい盛装で、何もかも変わらないままで、もうすぐ目の前にいる。アーモンド形の目の開いた、不思議に人好きのする笑顔ばかりが、どこまでも真っ直ぐ目の前を見るのが、懐かしいぐらいの気分に、まぶしくて胸が詰まる。丁度良く、時計の鐘が高らかに鳴る。もうすぐ島の夜がくる。別に来なくていいはずの、みんながいなくなった島。好きなあの娘もいない島。わなわなと震える喉が、なんて言えばいいか、わからないまま、頬が、口角が、持ち上がって緩まる。いなくなるなよ、いなくなるなよ、いなくなるなよ。あいたかったよ。わななく喉がほんとうに言いたくなったのはこんなところだ。それは、そう、多分、役者と、役者をやめた僕のことば。「待っていたよ。」



僕はお前を待っていたんです。







(ぼくらは何になろう)

- end -

2013-05


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